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 23:57 赤坂見附駅
 有馬直人
(ありま なおと)


     57分、あっている。
 ホームの電気時計の表示と腕時計を見比べて、有馬直人は小さくうなずいた。
 
 少々、早く来すぎたようだ。
 ホーム中程の時刻表をながめ、自分の乗る電車が2本目だということを確認すると、有馬は水飲み場脇のベンチへ腰を下ろした。ポケットから文庫本を取り出し、しおり代わりに折ったページを開いた。
 煙草を取り出そうとして、駅の構内が禁煙だったことを思い出し、肩をすくめて開いたページに目を落とした。
 
 他の男のことは知らないが、ぼくの場合、女性から手を差し伸べられたときは、その手を取る。ほとんど条件反射みたいなものだ。
 
 むろん、このときぼくの前に手を差し出したのは美代子だったわけだし、ぼくたちの関係はかなり微妙だった。はっきり言うと、別れ話をしている最中だった。しかも、その話を持ち出したのはぼくのほうだ。手を取ったぼくが迂闊だったと言われれば、返す言葉はない。だけど、彼女の手を取るというたったそれだけのことが、こんな悲惨な結果になるなんて、いったい誰が想像できるというんだ?
 
 だって美代子は、わかった、と言ったのだ。やや沈んだ声を震わせながら「わかったわ」と言ったのである。そして、椅子に腰掛けたぼくのほうへゆっくりと両手を差し出した。まるで映画の中の貴婦人がひざまずいた男に対してするみたいに、そろえた両掌を下へ向けて、ぼくの胸の前に差し伸べた。なにもかも許してあげるというように。
 
 それが罠だなんて誰が思う?
 僕は自分の膝から手を持ち上げて、美代子の手を取った。右の掌に貼りつくような妙な感覚が走ったが、ぼくが手を引くよりも早く、彼女は渾身の力をこめてにぎり返してきた。
 
「な、なにを……」
 と、僕は彼女の手を振りほどこうとした。しかし、それができたのは左手だけだった。ぼくの右手は、彼女の左手に吸いついたように、にぎりしめられたままだった。
 
「美代子……放せ。何か、手に――」
「シアノアクリレート」
 と、美代子は小さくぼくに言った。
 
僕は、右手をにぎられたまま、彼女を見返した。
「シアノ……?」
 美代子はぼくに微笑み、すぼめた口から、ふっ、と溜め息のようなものをついた。
「瞬間接着剤なの」
「…………」
 僕は、にぎられた右手を凝視した。
「さっき、手に塗っておいたの」
 
     一つ向こうのベンチに、男が腰を下ろした。
 有馬は、その男のほうへチラリと目をやった。

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