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 23:58 田原町駅-稲荷町
 矢萩浩幸
(やはぎ ひろゆき)


     優しい口をきいてやってりゃ、いい気になりやがって。
 
 矢萩は、加奈子から目をそらせたまま、握った拳をポケットに突っ込んだ。
 瑞枝を寝取られた上に、こんなことまで言われて黙ってるわけにはいかない。
 加奈子の亭主には、きっちりしめしをつけてもらうが、亭主が瑞枝で楽しんだぶん、オレはこの加奈子に楽しませてもらおう。
 
 いっそ――と、矢萩は、ホームの右手から聞こえてきた電車の音に顔を向けながら思った。
 
 いっそ、亭主の目の前で、こいつをヒイヒイ言わせてやろうか。
 そいつは、いい考えだ、と矢萩は自分に小さくうなずいた。
 
 トンネルの向こうにオレンジ色の光が現われ、電車が滑り込んできた。
 最後尾の車両が目の前で停まり、チャイムと同時にドアが開くと、矢萩は加奈子にチラリと目を向けた。加奈子は電車のほうへ仏頂面を向けていた。
 せいぜい、ぶすっとしてるがいいや。
 矢萩は、ふん、と鼻を鳴らし、開いたドアから電車に乗った。
 
 当然のことながら、車内は空いていた。前のほうに誰も座っていない4人掛けのシートがある。
 矢萩は、再び加奈子を振り返り、そのまま空いているシートのほうへ歩いた。加奈子は、黙って矢萩についてきた。
 
 加奈子を、ドア寄りの端へ座らせ、矢萩はその隣に腰を下ろした。座る位置をずらせ、加奈子の腰に自分のそれを密着させてやった。加奈子が座る位置を移動させ、一瞬腰が離れたが、矢萩はかまわずにもう一度加奈子のほうへ寄った。
 加奈子が身体を固くしたのがわかり、矢萩は、なんとなく愉快になった。
 
 そのとき、向かいの席に座っている女が、警察、と言ったような気がした。
「やっぱりそうだよ。警察の人だよね」
 今度は、はっきりと女の言葉が聞き取れた。
 
 矢萩は、なにも聞かなかったような顔で、中吊り広告のほうへ目を上げた。
 見るな……と、自分に言い聞かせる。女のほうを見るんじゃない。べつに、サツが乗っていようがかまわないじゃないか。オレは、いま、なにもやっていない。むしろ、オレは、被害者なのだ。
 
 ドアが閉まり、電車が動き出した。
 
「いちばん後ろなの?」
 加奈子が訊いた。
 なに? と、矢萩は彼女を見返した。
「いちばん後ろがいいの?」
 ああ、と矢萩はうなずいた。
「上野は、後ろがいいんだ。後ろが改札だから」
「ああそう」
 言って、加奈子は前へ目を戻した。
 
 矢萩は、それとなく正面に座っている二人に目をやった。
 警察の人だよね、と言った女は、明らかに水商売とわかる服装だった。
 その隣の男――。
 
 間違いなかった。このツラは、サツに違いない。
 矢萩は、顔を前の車両のほうへ向け、小さく息を吸い込んだ。

 
   庄司加奈子 向かいの席
の女
サツらしき

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