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 23:58 銀座駅
 竹内重良
(たけうち しげよし)


    「いてえ!」
 殴られた男が、声を上げた。
「なんだ、この!」
 男が、若い女につかみかかろうとする。

 竹内は、とっさに釣り仕度の若者の脇を抜けてその男に歩み寄った。男の肩を押さえる。
 男が、竹内を振り返った。ぷうん、と酒臭い息が、竹内の顔にかかった。

「なんだ、おっさん」
「やめなさい」
「なんだと? この女が、いきなり殴りやがったんだぞ」

 それは、竹内も見ていた。竹内が目を向けると、若い女はバッグの口を握りしめたまま、男をにらみつけていた。女のほうも酔っているように見える。

「チカン!」
 女が、吐き捨てるように言った。
「なにがチカンだ! ばかやろう。言いがかりつける気か、てめえ」
 男が、また女のほうへ一歩踏み出した。竹内は、男の腕をつかんだ。
「チカンだから、チカンって言ったんじゃないの!」

「はなせこの野郎!」
 と、男は竹内につかまれた腕をふりほどこうとした。竹内の手は外れなかった。振り払おうとしながら、男は女を怒鳴りつける。
「ふざけるな! 俺がなにをした! え?」
「触ったじゃないか!」
「触っただと? どこを触った。オッパイか? ケツか? 思い上がるんじゃねえぞ、このブス! だれが、お前みたいなブスを触るってんだ! 触ってもらったなら、感謝しろ」

「やめろ」
 竹内は、男を一喝した。
 男が、竹内をにらみつけた。
「おめえは、なんなんだ? おめえは! はなせ、このバカ野郎!」
 言いながら、男がつかまれていない右手で竹内に殴りかかってきた。
 竹内は、つかんだ左の腕を男の背中へねじりあげた。
「…………」

 男の顔が歪んだ。
 竹内は、若い女のほうへ目を向けた。女は、勝ち気そうな目で男をにらんでいる。
「訴えますか?」
 訊くと、女は、え? と竹内を見返した。

「訴えるなら、駅の事務室へこいつを連れていきましょう。あなたも一緒に来て下さい」
「え……その、あたしは……」
「訴えないなら、いつまでもこんなところにいないで離れたらどうです? 殴って、怒鳴っただけじゃ足りませんか? だったら、一緒に上へ行きましょう」

 若い女は、戸惑ったように2度、3度まばたきをすると、竹内と腕をねじりあげられている男を見比べ、クルリと背を向けて歩き去った。

 竹内は、それでようやく腕をつかんでいる手の力を抜いた。
「いてえ……」男が、歪めた顔で竹内をにらんだ。「てめえ。なにすんだよ」
 言葉は相変わらずだが、ねじりあげられたのがよほどこたえたのか、口調に先ほどまでの勢いはなくなっていた。

「悪かったな。ただ、あのまま女性に手を出していたら、ほんとに警察へ突き出されるところだぞ」
「けっ」と男は左の肩を押さえながら頭を振った。「冗談じゃねえや。なにもしてねえのに、とんだ災難だ」
 もう一度、男は竹内をにらみつけ、その場を離れて行った。見ていたが、女を追いかけるという様子ではなさそうだった。ホームの乗客たちが、竹内と男を眺めていた。

「…………」
 はっとして、竹内は自分の後ろを振り返った。
 釣り仕度姿の若者が消えていた。


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