|
冗談じゃないよなぁ、まったくぅ!
ピンクのタイル壁に背中を押しつけながら、西尾琢郎(仮名)は大きく
息を吐き出した。
いったい人をなんだと思ってるんだ。
あの井上夢人の人使いの荒いことといったら……このお!
考えているうちに、また腹が立ってきた。
本邦初のハイパーテキスト小説もいいけれど、原稿をページの上に載せ
てネットにアップするこっちの身にもなってくれ。
ただでさえ忙しいんだぞ! 寝るな、と言うのか? このボクに、寝る
なと言うのか!
西尾(仮名)は腕の時計に目をやった。
終電の到着までには、まだ3、4分の余裕があった。
ポケットから借り物のデジタルカメラQV-10を取り出し、スイッチ
を入れて液晶画面の表示を確かめる。
スイッチを切り、もう一度ため息をついた。
連載が始まる前には、調子のいいことばっかり言ってたくせに、次の原
稿はどうしたの? 次の原稿!
更新まであと3日しかないっていうのに、まだ2ページ分の原稿しか届
いてないじゃないかぁぁぁ!
「あ、西尾(仮名)君、あのね。ちょっと悪いんだけどさ、もう一度、終
電に乗ってもらえないかな。どうも、この、なんというか、新しい登場人
物の設定が、もう一つ決まらなくてねえ。実際に、人間観察をやったほう
が早いんだけれども、僕は、ほれ、山ん中に住んでるでしょ? 思い立っ
てすぐに地下鉄に乗るってこともできないんだよね。で、西尾(仮名)君
に、代わりにね」
ふざけるんじゃないっ!
あんたのイマジネーションが貧困なんだろ!
その貧弱な想像力を、どうしてボクが補ってあげなきゃいけないの?
最終電車の乗客を盗み撮りして、そのファイルを電子メールで送って…
…ああ、いいですよ。やりますよ。やればいいんでしょ、やれば。
でも、それでちゃんと原稿、書くんだろうね?
また、この前みたいに、風邪ひいて頭が痛い、とか言って逃げるんじゃ
ないだろーね。
しめころすよ、ほんとに。
よくあれで、プロの看板かけてやってるよなあ。
信じられないよ、まったく。
西尾(仮名)は、肩に提げたバッグからノートパソコンを取り出した。
ホームを見渡して向こうのベンチを眺めたが、歩いていくのも煩わしく、
タイルの壁に背中を押しつけたままそこへしゃがみ込み、自分の膝を机代
わりにして、パソコンのカバーを開いた。
せめて、電車が到着するまでに「落合綾佳」のページのバグ取りぐらい
は片づけておきたかった。
|