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 23:58 渋谷-表参道駅
 大辻淳一
(おおつじ じゅんいち)


     キーッ、と車輪がいやな音を立てた。
 
 その音が身体を突き抜けたような気持ちがして、淳一は、無意識のうちにシートから立ち上がっていた。そのまま、車両最前部のドアの前へ歩く。
 ドア脇の手すりをつかみ、ガラスに映った自分の顔を見つめた。
 誰か、知らない人間を見ているような気持ちがした。
 
 引き返したほうがいいのだろうか……と、淳一は考えた。
 
 たとえば、今から引き返して、あいつを地下室から出してやれば、冗談だったということですんでしまうかもしれない。
「ばかやろう。ひでえヤツだ。ほんとに焦ったぞ。ふざけるな」
 と、苦笑しながら一発、二発ぐらい殴られるかもしれないが、あいつだってほんとうにずっと閉じ込められたままだとは思っていないだろうから、
それで飲み直し、ということになるかもしれない。
 
 ガラスに映った自分が、じっと淳一をにらみつけている。
 
 うそだ……。
 そんなことには、ならない。
 地下室へ閉じ込める前、淳一は酔っぱらっているあいつを殴った。腹を蹴り上げ、床に倒れてうめいているあいつの顔面を、さらに蹴飛ばした。
 鼻と耳から流れていた血を、淳一は、はっきりと記憶している。
 
 ほとんど気を失った状態のあいつを、地下室へ担ぎ下ろし、そして外から鍵をかけたのだ。
 冗談……?
 あれを、あいつが冗談ですませるわけはない。
 
 それに……と、淳一はドアのガラスに額を押しつけた。
 
 鍵がない。
 あいつを地下室から出そうにも、錠を開ける鍵がない。
 鍵は、隣家の庭だ。
 あの高い塀に囲まれた屋敷の中へ放り込んできてしまった。塀の向こうがどんな庭なのか、まるでわからない。
 間違って庭に鍵を放り込んでしまったから取らせてくれなどと、訪ねていけるわけがない。まして、こんな夜中だ。どう思われるかわかったものじゃない。
 だからといって、塀を乗り越えることもできない。あれだけの大きな屋敷だ。防犯設備だって半端じゃないだろう。ベルが鳴り、警察が飛んでくる。
 
 では、どうすればいい?
 
 突然、目の前が明るくなって、淳一は驚いた顔を上げた。
 駅だった。
 電車が、駅に着いた。
 
 どうすればいい? 引き返すのか?
 
 スピードが落ち、やがて電車は停止した。
 ドアが目の前で開く。
 
「表参道です。5番線、最終電車浅草行きです」
 
 駅のアナウンスが言った。
 目の前のホームで、乗り込もうとしている女性が、ぼんやりと淳一を見上げていた。
 はっとして、淳一は自分がドアの前をふさいでいることに気づいた。手すりに身体を寄せ、彼女が通れるように場所をあけた。
 女性客は、淳一の横をすり抜けるようにして、そのままドア脇のシートへ腰を下ろした。
 
 どうする……。
 開いたドアの向こうのホームを見つめながら、淳一は唾を飲み込んだ。

 
    乗ってき
た女性客

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