![]() | 23:59 青山一丁目駅 |
駄目。落ち込んじゃ駄目。 美智子は泣き崩れそうになる自分を懸命に励ました。 悲観的に考えちゃ駄目よ。 うん、と力強く頷き、もう一度鏡を見た。 りりしい眉。大きな目。スジの通った鼻。きりりと引き締まった口元。誰が見たって男前だ。ジャニーズだといわれても信じるくらい。 美智子の心が入り込んでしまった青年――彼の名前が水口徹也であることを、美智子はジーパンの後ろポケットに無造作に押し込んであったバイクの免許証で確認した。歳は二十三歳。美智子よりも三つ年上だった。 うん。いい男じゃない。 美智子は鏡ににっこりと微笑んでみた。鏡の中の彼もにっこりと微笑み返してきた。 今でこそ、ようやくここまで冷静になることができたが、朝目覚めたときには、当然のことながら突然の異常事態に、彼女は激しく取り乱した。 薄汚れた下着。埃の積もった部屋。壁に貼られた気味の悪い宇宙人の写真。部屋の隅に積み重なったいやらしいアダルト雑誌。なにもかもが嫌悪感を誘った。水口徹也という男の身体に、美智子の精神が飛び込んでしまったらしいということだけは分かったが、それが分かったところで、なにも解決するわけではなかった。 昼過ぎになり少しだけ落ち着くと、机の上に放り出してあったポロシャツとジーパンを身につけ、逃げるように家を飛びだした。 外に出ると、そこが都内であることはすぐに分かった。自分の家に帰ることも考えたが、怖くて足が向けられなかった。家へ戻ったとき、そこに長い黒髪をなびかせて、お気に入りのライラックに水をやっている自分自身の姿を見つけたら――きっと正気を保つことができないだろう。 どうしていいか分からずに新宿をさまよい歩いているうちに、門限の六時が近づいてきた。自然と、美智子の足は自分の家に向いていた。たとえこんな姿になってしまっても、長年守り続けてきた決まりを破ることなどできなかった。 だが、父も母も彼女を歓迎してくれるはずがなかった。 家から追い出された美智子は、殴られた脇腹を押さえながら、人通りの少ない寂れた路地裏でうずくまって泣き続けた。死んでしまおうと思った。涙が枯れたら、死ぬことにしよう――そう決心していた。 「――なにしてんだよ。こんなとこで」 不意に聞こえた声に顔を上げると、耳にピアスをした茶髪の男の人が、心配そうな顔で美智子を見下ろしていた。白いネクタイに黒いスーツ。結婚式の帰り道のような格好だった。 「おまえんちへ行っても留守だから、心配してたんだぜ」 笑うと目元にしわの寄る優しそうな感じの人だった。 「祐子の結婚式さ、俺もあいつの笑顔見ていたら、だんだん腹が立ってきたから、途中で抜け出してきちまった」 「え……え……その……」 「なんだよ。立ち直ったなんてやっぱり嘘じゃねえか。頼むから、俺にだけは弱音を吐いてくれよな」 彼は左耳のピアスをいじりながら笑った。 「元気出せよ。すぐに新しい出会いがあるさ。おまえの赤い糸のもう一方は案外、すぐそばまで歩いて来てるかもよ」 彼はそういうと、美智子の肩をぽんと叩いた。 「腹、減らないか? いつものところでラーメンでも食っていこうぜ」 その言葉で、美智子は空腹であることに初めて気がついた。よく考えてみれば、昨日の晩御飯以降、なにも食べていないのだ。 「あの……私……」 「なにも言うな。俺の奢りだ。思いっきり食って、思いっきり飲んで、思いっきり泣いて、それで忘れちまおう」 彼は強引に美智子の腕を引っ張り、歩き始めていた。黙ってついていくしかなかった。 美智子は目の前で揺れる茶髪を眺めながら、ぼんやりと考えていた。 ――水口さんの友達? でもごめんなさい。水口さんはここにはいないの。私が水口さんの身体を乗っ取ってしまったのだから。――え? とすると……。 このときになって美智子は当たり前の疑問に、ようやく気がついた。 ――今、水口さんの意識はどこにあるのだろう? ひょっとして私の身体の中に?
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