気分が悪かった。
胸がムカムカする。
ハンカチは、手首に食われ続けている。まるでウサギが菜っぱを食べているような感じだった。液体をたっぷりと含んで重くなったハンカチの先から、ポタポタと滴が落ち続ける。
どうなってしまうのだ……?
英和は大きく呼吸を繰り返した。
手首がハンカチを食っている――そんなこと、あり得ないじゃないか。
夢だ。
と、英和は思った。
これは、夢だ。現実じゃない。オレは、夢を見ているのだ。
自分にそう言い聞かせながら、英和は車内を見渡した。現実感は、もうどこにもない。すべてのものが――自分を取り巻いているすべてのものが、遠くに感じられる。だから、夢なのだ。これは、すべて夢なのだ。
しかし、だとすると、オレは、この数週間、ずっと夢の中にいることになる。そんなに長い夢があるものだろうか? それに、夢の中で、オレは睡眠さえとっているではないか。
眠る夢……?
なんだかわからなくなった。
見ているうちに、手首の穴は、すっかりハンカチを食い尽くしてしまった。
ハンカチの最後の端が手首の穴に吸い込まれると、次の瞬間、モグモグと動いていた穴が、プウ、と息を吐き出した。
「…………」
まるで、それは、満腹になった人間が腹をさすりながら大きく息を吐き出す口元そっくりの動きだった。
そして、英和は、ハンカチを食った手首の甲がぷっくらと膨らんでいることに気づいた。口に似た穴はへの字に曲がり、さらに驚いたことに、その上に4つの小さな穴が開いていた。
またできてしまった……。
英和は溜め息をついた。
魚の顔を持った肉腫――。
内股と、脇腹と、脇の下。そして、今度は手首の甲だ。
いったい、これはなんなのだ?
気分が悪かった。
吐き気がする。
《具合が悪そうだな》
え?
と、英和は手首の肉腫に目をやった。
《顔色がよくない。健康には、充分、気をつけたまえ》
「…………」
喋っているのは、肉腫だった。への字型の口が、くちゃくちゃと動き、英和に向かって話しかけている。
そして、先ほどまでただの小さな穴でしかなかったものは、完全な眼に変化していた。ぎょろりとした眼球が二つ、パチパチとまばたきを繰り返しながら、英和を見つめている。
「そんな……」
英和は、頭を振った。
《なにが、そんなだ。失礼なことを言うんじゃない》
言って、肉腫は長い舌でペロリと口の周囲をなめた。
思わず、英和は胸の前で腕組みをした。腕を組んで、肉腫を隠す。
気持ちが悪かった。
手すりに身体をもたせかけ、英和はぎゅっと眼を閉じた。
嘘だ。こんなのは、嘘だ。
《おい、苦しいじゃないか》
右腕の下で、肉腫が言った。
いやだ、やめてくれ!
《苦しいと言っているのがわからないのか》
「お前は、いったい、なんなんだ?」
腕を組み眼を閉じたまま、英和は小声で訊いた。
《なんだだと? そんなこと知らんよ》
右腕の下で、モゾモゾと肉腫が動いている。英和は、そっと組んでいる腕を外した。
ふう、と肉腫が息を吐き出した。
「どうして、こんなものができた?」
《なぜ、そんなことを訊く? 私が答えを知っているとでも言うのか》
「お前は、なんだ?」
《だから、知らんと言っているだろう。お前は、自分がなんだか知ってるのか?》
「オレは……人間だ」
言うと、肉腫は、ふん、と鼻を鳴らした。
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