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 24:00 表参道-外苑前
 菊池留美
(きくち るみ)


     留美は、以前、蓮見先生が公雄について言った言葉を思い出した。

「ひっぱたいてやりたいと思いましたよ。叱られながら、ヘラヘラ、笑ってる。なにがおかしい、と訊いたら、べつに、と言いながら鼻をほじる。真面目にやれ! と怒鳴ったんですよ。そうしたら、突然、立ち上がって直立不動の姿勢で敬礼する。他の生徒たちが吹き出して、逆に得意満面の顔で見返してきた」

 そういう天野の態度は、あたしだけではなく、2年を受け持っているほとんどの教師が感じていたことだろう。
 公雄は、いつもそうだった。彼の頭にあることは、つねに、みんなの笑いを取ることだ。ようするにウケ狙い。教師の言葉など、公雄の耳にはいっさい入らなかった。成績はむしろ良いほうだが、ときどき、わざととしか思えないような間違いばかりの答案を出して0点を取ることもあった。その0点の答案用紙を、公雄は自分で教室の壁に掲示した。

 そんな公雄が、なぜ自殺などしたのか?

 蓮見よりも自分の叱る言葉のほうが公雄にショックを与えられるとは、留美には思えなかった。
 公雄は、むしろあたしをバカにしていたのではなかったか。
 むろん、他の生徒たちが見ている教室で叱られるのと、職員室に呼び出されて教師の前に座らされるのとでは、違いがあるだろう。放課後の職員室に、彼の観客はいない。
 しかし、その観客のいない場所でも、公雄はずっと演技を続けていたのではないか? 嘘泣きにしか見えなかった。あれは、留美の叱りつける言葉によって泣いていたのではない。むしろ、公雄は声を上げて泣き真似をすることで、留美の言葉を自分の耳から消していたのだ。

 電車が停まって、留美は顔を上げた。
 外苑前に着いていた。
「浅草行、ドアが閉まります」
 電車が動き始めると、留美は再び、自分の膝に視線を落とした。

 公雄は、ノートに〈菊池〉と何度も殴り書きし、それを赤いバツ印で消していた。
 それが、あの子の気持ちだったのだとしたら、なぜ自殺などするのか?
 公雄が消したかったのは、自分ではなく〈菊池先生〉ではなかったのか。

 職員室で叱られた腹いせに、よけい留美を困らせるようなことをするとか、あるいは仕返しをしようと考えるならわかる。以前、教壇の椅子にぺったりと木工用のセメダインが塗られていたことがあった。犯人はついにわからなかったが、あれもおそらくは公雄がやったことだろう。
 あの天野公雄なら、そういう嫌がらせを仕掛けてきてもおかしくない。いや、むしろ、そのほうが彼の行動としては自然だ。
 それが、なぜ、自殺になってしまったのか……。

 留美には、やはり天野公雄の自殺が信じられなかった。
 自分の言葉が、彼を死に追いやったとは思えなかった。
 もっと、べつの何かが原因なのではないだろうか。

 そうであってほしい、と留美は思った。
 自分が生徒を死なせたなんて、耐えられない。

 国語のノートに書かれた公雄の文字が、留美の頭から離れなかった。目を閉じると、赤いバツで消された自分の名前が瞼の裏に現われる。
 公雄は、赤鉛筆に持ち替えることまでして〈菊池〉の文字を消した。

 ふと、留美は、息を止めた。

 赤鉛筆に、持ち替えた……?


 
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