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ガランとした末広町駅の1番線ホームを、ゆっくりと最後尾へ向かって
歩きながら、龍造寺公哉はホーッと大きくため息をついた。
世は、悲しみに満ちている。
口の中でつぶやいた。
「…………」
ふと足を止める。世は、悲しみに満ちている――。もう一度つぶやき、
龍造寺は、うむ、とうなずいた。
語録に書き加えよう。
内ポケットから黒革の手帳と筆ペンを取り出し、白いページを開いてお
もむろに書きつけた。
《ヨハ カナシミニ ミチテイル》
なかなか、よい。
ふうふう、と息を吹きかけてインクを乾かし、静かに手帳を内ポケット
へ戻した。
そう、この世は、悲しみに満ち満ちている。生まれ出ずることは悲しみ。
生き長らえることも悲しみ。人は、死に至るまで、つねに悲しみの海を泳
ぎ続けなければならないのだ。
ああ……と、龍造寺は天を仰ぐ。いや、地下鉄ホームの汚れた天井を仰
ぎ見た。
彼の心の中も、また悲しみでいっぱいだった。
人々を悲しみの中から救い出してやることが自分に与えられた使命であ
ることはわかっているが、その使命は龍造寺にとってあまりに重い。
父よ。
と、龍造寺は天に問う。
私に、それを成し遂げる力があるのでしょうか?
40億の迷える民を導く力が、ほんとうに私にあるのでしょうか?
龍造寺公哉が、その自分の使命に気づいたのは、10日前の夜8時45
分だった。
NHKのニュースを見たあと、龍造寺は風呂へ入った。湯船につかる前
に、彼はいつものように風呂の窓を少しだけ開け、隣のアパートの様子を
窺った。正面にやはり窓がある。たいていはカーテンが引かれているが、
たまに開いているときがある。
以前、そのカーテンの隙間から、着替えをしている女性の姿が見えた。
そのときから、隣のアパートの様子を窺うことが、龍造寺の習慣になった。
10日前の夜、彼は、カーテンが半分ほど開けられているのを発見した。
その向こうでなにやら白いものが動いていた。カーテンと窓の縁に遮られ
て、白いものの正体は判然としなかった。そこで、彼は湯船の縁に両足を
乗せて伸び上がった――その拍子に、縁に乗せていた足が滑り、あ、と思
った次の瞬間、龍造寺公哉の身体は反転し、洗い場に墜落した。タイルに
肩と頭を打ちつけ、しばらく意識を失った。
丸裸で、片足を湯船の縁にひっかけた格好で彼は目覚めた。左の肩が痛
み、後頭部に大きなたんこぶができていたが、その次の瞬間、彼は不思議
な能力を与えられたことを知ったのである。
龍造寺公哉は、そのときから、人の心が読めるようになったのだ。
だから、その10日前を、彼は《第1日》と呼ぶことにした。
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