|
壁伝いに、できるだけ身体を寄せるようにして、クセルクセスは歩いた。
ホームの端まで来ると、人間が二人立っていた。
一人はサバの煮物の匂いを持ったオジサンで、クセルクセスは脇をすり
抜けたところで、つい、その脚を止めた。向こうで壁に背中をくっつけて
立っているお姉さんは、お酒とソース焼きそばの匂いを持っている。ソー
ス焼きそばよりも、サバの煮物のほうが魅力的だった。
どうしたらいいんだろう……。
クセルクセスは、オジサンのほうから流れてくるサバの煮物の匂いを胸
一杯に吸い込みながら思った。
途方に暮れていた。
これから、どこに行けばいいのかわからない。どうしたらいいのかもわ
からない。
由美子さんは「出てって!」と彼を怒鳴りつけた。
もう、由美子さんの部屋には戻れない。とても悲しかった。悲しくて、
怖かった。
三日前まで、クセルクセスは猫だった。
一昨日の朝、目を覚ますと彼は人間になっていた。どうして人間になれ
たのかわからない。誰が人間にしてくれたのかもわからない。
でも、自分の身体がツルツルの肌に変わっていて、手足が伸び、由美子
さんや他の人間たちと同じ姿になっているのを発見したとき、クセルクセ
スはとても嬉しかった。由美子さんも、きっと喜んでくれるだろうと思っ
た。
ところが、人間になった彼を見て、由美子さんはとてつもなく大きな声
で悲鳴を上げたのだ。
当然のことだけれど、クセルクセスはそのとき由美子さんのベッドで、
布団の上に丸くなって寝ていた。いつもと違って、ずいぶん寒かった。彼
は、裸だった。
由美子さんは、まるで怪物にでも出会ったような顔をして、クセルクセ
スを蹴飛ばした。
「誰……! 出てって!」
どうして、そんなことを言われるのか、彼にはまるでわからなかった。
必死になって訴えたが、人間の言葉を話したことがない彼の喉から出て
きたのは、奇妙なうなり声だけだった。
目覚まし時計を投げつけられ、プラスチックの定規を振り上げられて、
クセルクセスは必死で窓から飛び出した。いつもなら、簡単に庇へ飛び移
れるはずなのに、どういうわけかそのまま2階から道路に墜落した。した
たかに背中を打ち、一瞬息が止まった。近くを歩いていたオバサンが、大
声で叫び声を上げた。「チカン!」と、そのオバサンは叫んだ。
なにもかもが恐ろしくて、クセルクセスは必死で逃げた。路地に飛び込
み、植え込みの中を突き抜け――それは、いつもの巡回コースだったはず
なのに、うまく通り抜けることができなかった。
数人の人間が追って来て、彼は警察官に取り押さえられた。
身体を毛布でくるまれ、イヤな臭いのする部屋に閉じ込められ、いろん
な匂いの染みついた服を着せられた。
警察官に質問されたが、クセルクセスは何一つ答えられなかった。
「あんた、喋れないのか……?」
発音の仕方がよくわからないクセルクセスに、警察官はそう言った。
別の部屋に連れて行かれ、そこでやっと食事を出してもらった。食器に
顔を突っ込んで食べているクセルクセスを、警察官は気味が悪そうな顔で
見ていた。
そのまま、そこで飼ってもらえるのかと思ったが、今日の午後になって
彼は、その警察からも追い出された。着せてもらった服と、500円玉を
2個だけくれて、警察は彼を道路へ追い立てた。
この人、飼ってくれないかな……。
クセルクセスは、サバの匂いを持ったオジサンを見つめながら、そう思
った。
|