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 24:03 末広町駅
 能瀬朝子
(のせ ともこ)


     朝子は、右のこめかみに指を当て、やや強めにそこを揉んだ。

 また、かすかに頭痛がする。耐えられないほどではないが、最近、眼の奥に鈍痛がある。どうやら痛みが慢性化しているようだ。薬を飲むのは好きではないし、眠くなってくるのもイヤだから、なるべく服用は避けているが、それでも耐えられないときは白い錠剤をコーヒーで流し込む。薬に依存してしまうようなのはイヤだ。

 夫は医者へ行けと言うが、病院は薬以上に嫌いだ。あの消毒薬の臭いが耐えられない。
 あんな臭いに囲まれて、自分の身体を医者にいじくり回されるなんて、とんでもない。
 しかし、いつかは自分も医者にかからなければならなくなるのだろう。

 ああ、イヤだ。

 窓の外……。

 と、朝子はこめかみを揉み続けながらつぶやいた。
 松波幸三郎のいる社長室はビルの7階。大会議室はその真下5階にある。
 南側の道路に面した大きな窓は、その縦幅が約2メートル60センチある。

 しかし、いくら2メートル60センチであっても、上から落下してくる物体がその窓の向こうを通過する時間は一瞬だ。人間の身体がどのぐらいのスピードで落下するのか百科事典で調べてみたが、むずかしげな数式が書いてあるばかりでさっぱりわからなかった。
 自由落下する物体の加速度が【9.8m×sのマイナス2乗】だなどと言われて、ああなるほどとうなずける人間がどれだけいるだろう。わたしが知りたいのはそんなことじゃない。
 知りたいのは、7階の窓から落下した人間が、5階にある高さ2メートル60センチの窓からどれだけの時間目撃できるかということなのだ。

 しかし、とにかく一瞬だ。
 1秒の何分の1、いやそれ以下かもしれない。ちょうどその瞬間にまばたきをした人間なら見逃してしまうだろう。

 あ。

 と、いう間の出来事なのだ。

 だから、目撃者は大勢でなければならない。その会議室にいる30人全員の視線が、ちょうどその瞬間に窓のほうへ向けられていなければならない。30人いれば、その中の何人かは、確実に、落ちていく松波幸三郎を目撃するに違いない。

 もちろん、それが松波社長だと視認できる者など、超人的な動体視力の持ち主でないかぎりいるわけがない。見分けられなくていいのだ。
「あっ!」
 と誰かが声を上げ、窓へ走り寄る者が一人でもいれば、それでいい。
 そして、なんだなんだ、と数人が窓を開けて道路を見下ろし、倒れている男の姿を発見する。
 会議室が大騒ぎになる。
 それで充分だ。

 その瞬間にアリバイが成立する。

 だから、最大の問題は、どのようにして会議室の30人の視線を、同時に窓のほうへ向かせるかということだ。その状況が作り出せない限り、アリバイは成り立たない。

 しかし、これが厄介だった。
 難しいのはタイミングなのだ。
 松波幸三郎の死体が窓から落ちるその瞬間に、全員の視線を窓へ向けさせる――。

 今日のテストで、自動的に死体を窓から落とすことが可能であることは確認できた。3回テストを繰り返したが、死体代わりの砂袋は、一度の失敗もなく机の端から床へ落下してくれた。
 ただ、問題は残った。

 時間が一定しないのだ。

 装置をスタートさせてから砂袋が落下するまでの時間は、最小が18分50秒、最大は22分30秒だった。
 4分以上の誤差がある。
 これでは、5階の会議室にいて、いつ全員を窓に向かせればいいかタイミングが計れない。
 こんなに時間のバラツキが出るとは思っていなかった。
 テストをやってよかったと言うべきだろう。

 どうしたらいいのだろう……。

 朝子は、またこめかみに手をやった。
 ずん、ずん、と眼球の奥に血の流れを感じた。


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