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一足遅かった。
階段を必死で駆け下りたが、すでに渋谷行は走り始めていた。
ちぇっ、ついてねえ。
伸嗣は、走り去る銀色の電車を目で追いながら、奥歯を噛みしめた。
なにもかも、ついてねえ。
ホームの床に唾を吐き捨てようとして、伸嗣はその唾液を呑み込んだ。
大きく首を振った。
それがだめなんだよ、おめえは。
と、伸嗣は自分に言い聞かせた。
なにもかも、じゃない。ついてなかったのは、今の電車に乗れなかった
ことだ。恵利子のことは、ついてないんじゃない。そんなふうに思ったら、
あいつがかわいそうじゃないか。子供ができちまったのは恵利子のせいじ
ゃない。あれは事故だ。事故はついてなかったが、産んで2人で育てよう
と決めたんだ。決めた以上、ついてないなんて思うんじゃない。
そんなふうに思ったらだめだ。
伸嗣は右手で髪を掻き上げ、その手をチラリと眺めてズボンのポケット
に突っ込んだ。
手術なんて、またできるさ。
なにも、今やらなきゃいけないってもんじゃない。
そうだろ、え?
今、俺と恵利子がやらなきゃいけないのは、産まれてくる子供をちゃん
と育てるってことだ。
そのためには金がかかる。いろいろかかる。
だから、手術は、ほんのちょっとだけおあづけってことさ。ほんのちょ
っとだけだ。子供が大きくなって、貯金もできたら、また考えればいい。
な、今だって幸せじゃないか。
恵利子と一緒に暮らせてるんだ。これ以上のことなんてないぐらい、幸
せじゃないか。
チンポコついてないぐらい、なんだってんだよ。
伸嗣は、ひょいと肩をすくめた。
周囲に客は少なかった。ホームの向こうには、けっこう客の姿も見えて
いるが、この階段付近にいるのは、ぽつんぽつんと男が2人立っているだ
けだった。新聞を手に持った図体の大きな男と目があった。
「…………」
なんだよ、とにらみ返してやると、男はとってつけたように新聞に目を
落とした。
ふん、と伸嗣は鼻を鳴らした。
いつだってできるさ。
と伸嗣はまた自分に言い聞かせた。
急ぐ必要がどこにあるよ。俺にチンポコついてないのは、生まれてこの
かたずっとだ。25年間、ずっと俺の股には、あるべきものがぶら下がっ
てなかった。
25年間我慢してきたんだ。あと、何年かの我慢が出来ねえはずがねえ
だろ。え?
男にしちゃ、ずいぶんチビだってことは認めるけどさ。サラシ巻いて胸
を押しつぶして、あせもなんか作ったりしてさ。まともな仕事に就こうと
したことはあるけど、履歴書には戸籍上の名前を書かなきゃならない。
伸子
なんて、書けるかよ、そんな名前。
だから、おきまりの〈オナベ〉やってるってだけだ。
それを、もうちょっと続けりゃいいってだけだよ。
ついてないなんて、言うんじゃない。
思うんじゃない。そんなふうに思ったら、恵利子がかわいそうだ。
そうだろ。
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