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 24:05 三越前駅
 飯塚耕治
(いいづか こうじ)


     口を押さえながら周囲を見回した。
 目にとまるものは何もなく、そのまま飯塚はホームの端から線路へ首をつきだした。同時に、嘔吐した。

「…………」

 しばらく、飯塚はそのままの姿勢で線路を見つめていた。右の眼から涙が頬を伝い落ちた。嘔吐の苦しさで涙が出たのか、それとも別の理由なのか、飯塚自身にもよくわからなかった。
 ただ、情けなかった。
 自分自身が、情けなくてしょうがなかった。

 口の中が気持ち悪い。
 ペッ、と飯塚は唾を線路へ向かって吐き捨てた。
 レールの表面が銀色に光っている。レールは、上部だけが車輪に磨かれて光り、側面は真っ黒だった。枕木……いや、コンクリートのそれはなんと呼ぶのだろうか。材質が変わっても、やはり枕木なのだろうか。その枕木も、レールの側面と同じように油に汚れて真っ黒になっていた。

 お前のやっていることと、そっくりだな――。

 ふと、自分自身にそう言った。
 福祉のための特殊車両。表面はピカピカで、裏へ廻ると、高級割烹で接待を受け、50万の車代を受け取って真っ黒になっている。

 飯塚は、ホームの端にしゃがみ込んでいた。立ち上がる気力が失せていた。
 嘔吐したが、胸のむかつきはそのままだった。吐き出すことのできないものが、飯塚の喉元を押し上げ続けている。
 掌で右の頬を拭う。涙を拭い、その拭った手を額に当てた。
 眼を閉じると、財前部長の笑い声が耳の奥で甦った。

 どうすればいいのだろう。

 相模自動車への発注は、9分9厘決定している。ずいぶん前から飯塚は相模自動車を推す発言を繰り返してきたし、その彼の言葉を聞いた人間は一人や二人ではない。
 もう、飯塚が放っておいても、決定は相模自動車に下るだろう。飯塚が何かをしなければならないことはない。

 だから、このままにしておいても……。

 飯塚は、小さく首を振った。
 ちがう。
 問題はそんなことじゃない。
 ではなにか? お前は、50万を受け取るつもりなのか?

 つもり? つもりだって?
 もう、受け取っているではないか。一度は辞退したものの、結局、分厚い封筒が内ポケットに入っているではないか。

 相模自動車に決定し、そして、そのあと、飯塚がカネを受け取ったことが人に知れたら……人々は、その決定をどう思うか?
 当然のことだ。人は、50万のために飯塚が相模自動車を推したと考える。

「別に気になさるようなものじゃありませんよ。ほんのお車代ってことだけですから」

 財前部長の声が頭の中に響いた。

 気になさるようなものじゃない?
 では、これはあたり前のことだというのか?
 当然の報酬だとでもいうのか?

 もちろん知っている。
 こういうことは、あちこちで行なわれている。飯塚にとっては初めての経験だが、こんなことはいくらでも行なわれている。
 そう、気にするようなことではないのだろう。
 たぶん、それで胸がむかつくような思いをしているほうが異常なのだ。

 では、このままなのか?

 おお……と、飯塚は小さく声を漏らした。
 あの部長が恨めしくて仕方なかった。あの部長は、飯塚をその程度の男だと踏んだのだ。50万を渡せば、素知らぬ顔をして自分たちのために動く人間だと踏んだのだ。

 なぜ、こんなものを寄越した?
 どうして、私をこんな目に遭わせるのだ……?


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