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 24:05 赤坂見附駅
 有馬直人
(ありま なおと)


     腕の時計に目をやった。

 まだ、時間はある。
 短めの小説なら、もう一つぐらいは読めるだろう。
 目次を開き、読み終えたばかりの『あなたをはなさない』の次に『私は死なない』という短篇があるのを見て、有馬はそのページを開いた。

 似たようなタイトルがついているところを見ると、内容も似たようなものなのかもしれない。

 この世界に未練はなかった。

 名倉哲郎には妻がいる。娘も2人いる。78になる母親も健在だ。親戚縁戚にいたっては、数え上げるだけでうんざりする。

 そういった人々の存在は、今の名倉にとって、なんの意味も持っていなかった。むしろ、研究室に置かれた装置や薬品のほうが、どれだけ彼に親しみを感じさせただろうか。むろん、実験装置や化学薬品に対して未練があるわけではない。30年近くを過ごしてきた研究室のいたるところには、名倉の匂いと体温がしみついている。だから、着古した外套のように、それらは彼になじんでいる。ただそれだけのことだった。外套に名残りを惜しむような感情を、名倉は持っていない。家族の価値など、外套以下でしかないのだ。

 この世界に存在するいかなるものにも、もはや名倉を引き止める力はなかった。レポート用紙に遺書めいたものを書き、そこへ妻と娘たちの名を連ねたのも、あとに残る者への儀礼以上の意味はない。

 遺書か……。

 思わず名倉は苦笑した。笑いながら、レポート用紙を机に置いた手で小さなガラスの瓶を取り上げた。焦茶色の小瓶には、彼がNOB-244βと名付けた無色の液体が15cc入っている。目の高さに上げた小瓶の底に揺れる液体を眺めながら、名倉はゆっくりと息を吸い込んだ。松山慎二の笑い声が彼の耳に甦った。

「名倉君、なに考えてるんだよ」

 あの哀れな神経学部長は、見せられた化学式を太い指先でトントンと突ついて彼に言った。
「こりゃ、神経毒じゃないか。アトロピンの異性体か何かだろう。君は、新種の幻覚剤でも作ろうってのか」

 彼ならと思って打ち明けたことを、名倉はそのとき後悔した。やはり、理解してはもらえなかった。松山でさえ理解できないものを、では誰が認めてくれるのだろうか。

 このNOB-244βは、むろん松山が言う通りの猛毒物質である。ほんの0.0001ミリグラムの投与で、強烈な幻覚作用が訪れる。ラットでの実験によって得られた体重1キログラムあたりの致死量は、0.01ミリグラムだった。

 しかし、これは単なる毒薬や幻覚剤ではない。このNOB-244βの本質は、生命体の肉体と精神意識体を切り離す作用を持っていることなのだ。つまり、これまでの科学では踏み込むことのできなかった〈霊〉の領域を、実験装置の中まで引き下ろすことが可能になったのである。


 肉体と精神意識体を切り離す……?

 有馬は、ページを睨みながら思った。
 なんのことだ?


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