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 24:06 三越前駅
 飯塚耕治
(いいづか こうじ)


     送り返してやれば、とホームの端にしゃがみ込んだまま、飯塚は思った。

 この50万を、封筒に入れたまま財前部長に送り返す。
《なにかのお間違えだと存じますので、お返しいたします》
 ひとこと、そう書いてやればいい。
《私の自宅は、50万の車代がかかるほど遠方ではございません》
 そこまで書いたら、嫌味が過ぎるかもしれない。角が立ってしまうかもしれない。

 それでいいのではないか?
 送り返してしまえば、すむことではないのか。

 いや、と飯塚は小さく首を振った。
 では、一流割烹の料理は返せるのか? 飲んだ酒を郵送できるのか? 両脇に座っていた着物の女性の、あの膝に置かれた手の感触や、耳元にかかった吐息を、財前部長に突っ返せるとでも言うのか?

 だから……だからせめて、50万だけでも。
 自分の胸に、言い訳のようにして言う。
 その言葉は虚しかった。

 どうして、こんなに気が弱いのだろう。
 なぜ、もっと胸を張って生きられないのか。
 お前は、ずっとそうだった。子供のときから、周囲に気をつかってばかりいた。
 いや、気をつかっていたのではない。お前は、恐ろしかったのだ。お前は他人が怖いのだ。

 他人の気分を害してしまうことが怖い。自分の言ったことで、もし、相手が気を悪くしてしまったりしたら……いつもそれにビクビクしている。
 啓子のこともそうだ。

 銀色に光る線路を見つめた。
「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」
 3年前に啓子の言った言葉が、耳の中によみがえる。
「いや……その、僕は……」
「うれしい」
 そう言って、啓子は飯塚に抱きついてきた。

 彼女は、男にだまされ、傷つけられ、そして捨てられた。話を聞いてみると、男から受けた仕打ちはほとんどレイプ同然だった。それを、啓子は泣きながら飯塚に話した。飯塚は泣いている彼女を必死に慰め、気晴らしのドライブに誘い、一緒に映画を観たりコンサートへ行ったりした。
 啓子は、飯塚に何度も訊いた。
「ほんとに、あたしでいいの?」
 飯塚は、訊かれるたびにうなずいた。

 飯塚の心の中にいたのは、しかし、啓子ではなく美智だった。それを、言うことがとうとう飯塚にはできなかった。おそらく一生口にはできない。言えば啓子が傷ついてしまう。それが怖い。

 飯塚は「好きだ」とも「愛してる」とも啓子に言ったことがない。
 啓子に問われ、それにうなずいてしまっただけだ。結婚も、家も、クルマも、なにもかも啓子は飯塚に訊き、そして訊かれたことに首を振ることができないまま、すべては啓子の希望通りに進行した。
 いまさら、それを元へ戻すことはできない。

 それなりに、幸せじゃないか。
 と、飯塚は自分に言う。
 啓子は飯塚を愛してくれている。料理はあまり上手くないし、家事も飯塚が自分でやったほうがよほどきちんと片づく。でも、啓子は必死に家を守ろうとしている。啓子は、最高の主婦をイメージして、そのイメージに自分を当てはめている。それを今さら壊すことはない。
 なによりも、啓子は飯塚を必要としている。
 そして、啓子のお腹には赤ん坊がいるのだ。

 弱虫なのだ。

 嫌だと言えず、首を横に振ることができず、自分の考えを相手に押しつけることができない。他人が怖いのだ。相手のむっとした顔を見るのが怖いのだ。

 だから、飯塚は「いい人」だと思われている。害にならない男だと思われている。
 もちろん、「いい人」ということは「くみしやすい男」であり「適当にあしらっておけばいい男」だということでもある。それは、自分でもよくわかっている。

 上司も、同僚も、面倒なことは飯塚に回してくる。便利な男だからだ。
「頼むよ。飯塚君しかいないんだよ。な、やってくれるよな」
 飯塚はうなずき、相手は笑い、丸く収まる。

 突っ返してやりたい。
 飯塚は、そう思う。
「お断りします」
 そう言ってやりたい。

 ため息が出た。
 

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