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 24:07 三越前駅
 飯塚耕治
(いいづか こうじ)


     また、胸を押さえた。
 封筒のふくらみ。50万のピン札。

 啓子は、この50万を見てなんと言うだろうか。
「うわあ!」
 眼を輝かせ、手を叩くのかもしれない。たぶんそんなところだ。
「ボーナスみたいなものね。助かるわ。お風呂も直さなきゃいけないし、それに赤ちゃんが産まれたら何かと物要りだもの。貯金はあるけど、ローンの残りを考えるとゼロと同じだし、これで入院費用ぐらいにはなるわよね」

「…………」

 気が重い。
 おそらくお前は、その啓子の言葉に、またうなずいてしまうのだろう。
「返したほうがいいんじゃないかと思ってるんだ」
 そんな言葉を啓子に言えるとは思えない。言ったら、啓子は眼を丸くして怒り出すだろう。
「どうして? どうして返す必要があるの? 収賄とか、そういうことを考えてるの? 世間体? 良心? 他の人だってやってることでしょ? どうして返すの? あなたが要求したわけじゃないんでしょう? だったらあなたの責任じゃないし、お車代として受け取ったってだけのことじゃないの。第一、返したらどんなことになると思う? 相模自動車の部長さんがどんなことを考えると思うのよ。あなたに侮辱されたと思うわよ。あんたがやってることは贈賄だって面と向かって言ったのと同じことになっちゃうじゃないの」

 きっと啓子はそう言う。
 このカネを……相模自動車に突っ返すつもりなら、と飯塚は胸を押さえながら思った。カネを返すのであれば、これを啓子に見せてはいけない。問題がさらにややこしくなってしまう。
 しかし、啓子に秘密にしておくことが、おそらくもう一つべつの重荷を作ることになるだろう。

 妻に隠し事をしている……。

 それが、飯塚の心に、また罪の意識を沈めてしまうのだ。

 罪の意識――。
 これまで、どれだけの「罪」を背負ってきただろう。
 おそらく、他人ならそれを「罪」とも思わない小さな気持ちの〈ささくれ〉。

 たとえば、今日留守中に届いていたFAX。
 ――お電話しましたが、外出されているということですので、先日のお問い合わせの件、FAXにてご回答申し上げます。
 そう書かれていた。
  午後に電話して下さい。そう伝えた自分の言葉を忘れていた。先方は、その約束を守り電話してきた。しかし、頼んだこちらが忘れてしまっていた。
 その焦りが飯塚の心に、また小さな「罪」を負わせた。

「1番線、電車が参ります。1番線に参ります電車、銀座、赤坂見附方面、渋谷行です。黄色い線より下がってお待ち下さい」

 構内アナウンスに、飯塚はギクリとして顔を上げた。
 あわてて立ち上がり、2、3歩退いた。

 罪を重ねながら生きている……。
 幾つもの罪の意識が、毎日毎日、心の中に積み重なっていく。
 自分は、死んでも天国へは行けないと、飯塚は思う。カンダタはクモを踏みつぶすのを思いとどまったことだけが善行で、しかしそれでもお釈迦様は蜘蛛の糸を下げて彼を極楽浄土へ上らせようとした。だが、飯塚は仮にクモの糸を垂らされたとしても、その糸をつかむことに罪の意識を感じてしまうだろう。

 これまでに犯してきたそれら多くの「罪」の中で、いま飯塚の内ポケットに入っている封筒の中身は、もっとも重いものだった。これほどの重い罪を犯したことはなかった。
 電話の約束を忘れていたことは「罪」だが、それによって警察に突き出されることはない。
 しかし、この50万は違う。
 これは、れっきとした犯罪なのだ。

 犯罪――。

 後頭部のどこかで、ミシリ、という音がした。

 飯塚耕治は、財前部長から「お車代」を受け取った瞬間に犯罪者となったのだ。
 それは、たとえこの封筒を相模自動車に送り返したとしても、消えはしない。

 絶対に、一生、消えない烙印なのだ……。


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