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24:08 神田-三越前駅-日本橋
 細谷敏弘
   (ほそや としひろ)


     いや、もちろん死んでいるわけではない。

 自分の考えに戸惑いながら、敏弘はそれを否定した。
 死にたくなるほどの脱力感を感じるだけのことだ。死んだような状態から元気がみなぎってくるから、そんなたとえを思いついただけのことだ。

「…………」

 否定しながらも、なんとなく敏弘はその言葉が気になって仕方なかった。
 これが毎朝続いているということは、毎晩死んでいるようなものではないのだろうか――。

 電車が、三越前駅に到着した。
 妙な酔っぱらいが、正面のドアから乗り込んできて、フラフラとした足取りで敏弘の左のシートへ腰を下ろした。その顔は、ずっとニタニタ笑い続けている。少々、気味が悪い。

 毎晩死んでいる……。

 わからないことは2つある。
 1つは、あの「元気ジュース」はなんなのかということ。
 そして、もう1つはもっと重大な疑問だ。

 どうして、毎晩死んだようになってしまうのか、ということだ。

 電車のドアが閉まった。走り出すと、敏弘は腕時計に目をやった。

 その脱力感の原因が過度のセックスにあるのだとすると、では、どうして敏弘だけなのか?
 千秋は、毎朝溌剌として敏弘のいるベッドへ「元気ジュース」を運んでくる。同じような運動をして、どうして千秋はいつもあんなに元気でいられるのだろう。

 むろん、千秋もあのジュースを飲んでいるのだろう。彼女は起きるとまず、最初にキッチンへ行って元気ジュースを飲むのだ。
 しかし、キッチンへ行く力が、彼女にはある……。

 敏弘の場合は、腕を持ち上げる気力さえ残っていない。いや、腕どころか指一本動かすこともできなくなっているのだ。千秋がベッドにやってきて、彼を抱き起こし、元気ジュースを飲ませてくれるまで、敏弘にはどんな小さな力さえ取り戻すことができないのだ。

 どうして、自分だけなのだろう?

 なぜ、毎日、あんな状態で朝を迎えることになってしまうのか?

 指一本動かすこともできないほど、身体中のエネルギーを使い果たしてしまうようなことを、毎晩ベッドの中でやっているのだろうか? そして、その記憶が敏弘には、まるで残っていない。
 そもそも、人間は眠れば体力を回復する。翌日に疲れを残してしまうようなことも、もちろんあるにはあるが、それにしても眠ればその大部分の疲れは癒える。
 それが普通だ。

 なのに、敏弘は、毎朝瀕死に近い状態で目覚めるのだ。
 いや、むしろ、それは目覚めるというより、意識が戻るというほうがあたっている。仮死状態から、ようやく息を吹き返したといったほうが、あの状態を正しく言い表しているような気がする。

 なにが起こっているのだろう……?

 セックスではない。過激なセックスが原因ではない。
 問題なのは、そのあとだ。

 千秋とのセックスのあと――いや、その最中に敏弘は意識を喪失する。
 なぜ、毎晩気を失ってしまうのか? 気を失っている間、ベッドの中の敏弘に何が起こっているのか?

 千秋――。

 敏弘は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 なにか奇妙だと思い、毎日同じ疑問を繰り返し感じながら、しかし、敏弘は自分の部屋へ帰る。千秋の待っている部屋へ帰る。今夜もまた同じことが繰り返されるとわかっていても、敏弘は部屋へ帰っていく。
 ただ、ほんの少しずつ、帰る時間が遅くなっている……。

 何が起こっている?

 敏弘は、額に落ちてきた前髪を掻き上げた。


 
    妙な酔っ
ぱらい

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