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 24:08 三越前駅-日本橋
 千吉良理華
(ちぎら りか)


     待って!

 と、理華は階段を2段ずつ駆け下りながら叫んだ。ホームで、ピーッ、と乗車を促すためなのか、もうあきらめろというのか笛の音が鳴っている。
 危うくつんのめりそうになりながら階段からホームへ降りると、理華は一直線に最後尾のドアに向かって走った。車内に飛び込んだとき、後ろでドアが閉まった。

「…………」

 電車がゆっくりと走りはじめたとき、理華は、ザワザワした妙な感覚を覚えながら車内を見回した。
「なに……この電車?」
 異常だった。いやな空気が漂っている。
 あたり前の電車だ。店に出るときも帰るときも、いつも乗っている地下鉄の車内だ。

 しかし、そこに漂っている空気は、普通ではなかった。
 おそるおそる、理華は車両を前のほうへ向かって歩いた。乗客たちの視線が、自分を見ているのがわかる。でも、それはどうでもよかった。いま、理華が妙な感じを抱いているものは、乗客たちが向けてくる視線ではなかった。

「なんか、へんなのがいるみたい」

 つい、言葉が口をついて出た。
 背筋をなで上げられるような、おぞましい空気。
 車両の中央に空いている席を見つけて、理華はそこへ腰を下ろした。

 あの部屋と同じだ……。

 車内を眺め回しながら、理華は思った。
 2ヶ月前に引っ越してきたアパートの部屋で毎晩感じていた空気――それと同じものが、この電車の中にある。

 いやだ、まさか……。

 逃げたと思っていたのに、そうじゃなかったのだろうか?
 誰も信じてはくれなかった。
「なにかいるの。あたしの部屋に、なんだかわからないものがいるのよ」
 そう言っても、信じてくれる人は誰もいなかった。
 我慢できなくて、新しい部屋を探して引っ越しをした。それで、ようやく夜もぐっすりと寝られるようになった。
 なのに……。

 ――どのような意味だ。

 はっとして、理華は顔を上げた。
 なにかが、自分に問いかけたような、そんな気がしたからだ。
 怖くなって、理華はバッグを胸に抱きしめた。

 ――聞こえているのか。

 いやだ……と思いながら、理華は車内を見渡した。
 鼓動が激しく胸を打っている。空気が、重く、冷たい。どんよりと寒天のように粘っている。

 いやだ、聞こえない。なにも聞こえていない。
 なんでもないんだ。ちょっと疲れてしまったから、今日はたくさん仕事をしたし、疲れちゃったから、だから変な気持ちになっているだけなんだ。
 なんでもない。もう、引っ越したんだもの。もう、2ヶ月前に終わったんだもの。

 そのとき、理華の目の前の空気が、奇妙に白く濁ったように見えた。

「やだ……なに、これ」

 思わず、理華はそうつぶやいた。


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