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待って!
と、理華は階段を2段ずつ駆け下りながら叫んだ。ホームで、ピーッ、と
乗車を促すためなのか、もうあきらめろというのか笛の音が鳴っている。
危うくつんのめりそうになりながら階段からホームへ降りると、理華は一
直線に最後尾のドアに向かって走った。車内に飛び込んだとき、後ろでドア
が閉まった。
「…………」
電車がゆっくりと走りはじめたとき、理華は、ザワザワした妙な感覚を覚
えながら車内を見回した。
「なに……この電車?」
異常だった。いやな空気が漂っている。
あたり前の電車だ。店に出るときも帰るときも、いつも乗っている地下鉄
の車内だ。
しかし、そこに漂っている空気は、普通ではなかった。
おそるおそる、理華は車両を前のほうへ向かって歩いた。乗客たちの視線
が、自分を見ているのがわかる。でも、それはどうでもよかった。いま、理
華が妙な感じを抱いているものは、乗客たちが向けてくる視線ではなかった。
「なんか、へんなのがいるみたい」
つい、言葉が口をついて出た。
背筋をなで上げられるような、おぞましい空気。
車両の中央に空いている席を見つけて、理華はそこへ腰を下ろした。
あの部屋と同じだ……。
車内を眺め回しながら、理華は思った。
2ヶ月前に引っ越してきたアパートの部屋で毎晩感じていた空気――それ
と同じものが、この電車の中にある。
いやだ、まさか……。
逃げたと思っていたのに、そうじゃなかったのだろうか?
誰も信じてはくれなかった。
「なにかいるの。あたしの部屋に、なんだかわからないものがいるのよ」
そう言っても、信じてくれる人は誰もいなかった。
我慢できなくて、新しい部屋を探して引っ越しをした。それで、ようやく
夜もぐっすりと寝られるようになった。
なのに……。
――どのような意味だ。
はっとして、理華は顔を上げた。
なにかが、自分に問いかけたような、そんな気がしたからだ。
怖くなって、理華はバッグを胸に抱きしめた。
――聞こえているのか。
いやだ……と思いながら、理華は車内を見渡した。
鼓動が激しく胸を打っている。空気が、重く、冷たい。どんよりと寒天の
ように粘っている。
いやだ、聞こえない。なにも聞こえていない。
なんでもないんだ。ちょっと疲れてしまったから、今日はたくさん仕事を
したし、疲れちゃったから、だから変な気持ちになっているだけなんだ。
なんでもない。もう、引っ越したんだもの。もう、2ヶ月前に終わったん
だもの。
そのとき、理華の目の前の空気が、奇妙に白く濁ったように見えた。
「やだ……なに、これ」
思わず、理華はそうつぶやいた。
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