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階段からホームに降り立ったところで、彼はグイと背筋を伸ばしてみた。
電車は、まだ来ていなかった。
本当に……私は、物部真吾なのだろうか?
自分自身が情けなくて仕方なかった。
「疑っていては、良くなるものも良くなりませんよ」
あの医者は、私にそう言った。
しかし、やはり、私には自分が〈物部真吾〉という男だったような気がしないのだ。
では……と、彼は唇を小さく噛む。
そうでないとしたら、誰だというのか?
わからなかった。彼には、なにもわからなかった。
全生活史健忘――それが、医者に告げられた彼の病気の名前だ。俗に、記憶喪失と呼ばれている。
「あなた、わたしがわからないんですか? わたしの顔も覚えていないの?」
そう言いながら、あの亮子という女は涙を流した。彼女は、私の妻だと言った。
そして、彼女は私の名前が〈物部真吾〉だと告げたのだ。
過去の記憶が、彼には一切なかった。
病院で目を覚ます以前の記憶が、根こそぎなくなっていた。医者や亮子は、工場で事故があったのだと言った。しかし、その「工場」がどこのどんなところを指しているのかさえ、彼には見当もつかなかった。
そっと頭に手をやった。
すでに包帯はない。耳の後ろに、5センチほどの大きな傷跡が残っているだけだ。髪をかき分けて、指先でその傷跡をなぞってみる。
傷が自分になにかを語ってくれるのではと考え、しかし、指先から伝わってくるのは、生え始めた周囲の毛のチクチクした感触と、半月形にのびるゴツゴツした縫合の痕跡だけだった。
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