![]() | 24:09 三越前-日本橋駅 |
千秋にとって……と、敏弘は思った。 彼女にとって、自分はいったいなんなのだろう。 敏弘は、毎朝千秋に送られてマンションを出る。そして、仕事を終えると千秋のいる部屋へ帰っていく。食事をし、セックスをし、朝を迎えるまで死んだように眠る。その繰り返し。 いったい、千秋にとって、敏弘との生活とはなんなのか。 「まもなく日本橋、日本橋。東西線はお乗り換えです。今度の東西線西船橋行の最終電車は12分の発車です。お出口は左側に変わります。お手回り品、お忘れ物ないよう、ご注意を願います。日本橋でございます」 アナウンスが告げて、敏弘は自分の顔をひと撫でした。 千秋は、ゴキブリを手でつかみキッチンへ持っていく。窓を瞬間接着剤で固定してブラインドを下ろす。決して自分の寝姿を見せない。そして、「元気ジュース」を敏弘に飲ませる……。 千秋にとって――。 敏弘は、いままでずっと、この奇妙な新婚生活を自分の側からしか考えていなかったことに気づいた。 千秋の側から考えると、いまの生活は、そして敏弘はいったいなんなのだろう。 敏弘が奇妙に思っていることも、千秋にしてみれば、きわめてあたり前のことなのだったとしたら……いや、したら、ではない。おそらく、彼女にとっては、ゴキブリを手で捕まえることも、窓を閉めブラインドを下ろすことも、寝姿を見せないことも、敏弘に朝のジュースを飲ませることも、すべてあたり前の日常であるに違いないのだ。 では、それはいったい何のためなのだ? 千秋にしてみても、敏弘との生活が厭であるわけはない。彼女は、敏弘と一緒になることを望み、そして毎日をエンジョイしているのだ。 敏弘が必要であるからこそ、千秋は敏弘と暮らしている。 必要であるからこそ……。 ある一つの考えが、ゆっくりと敏弘の中で拡がりはじめた。 千秋は、敏弘を必要としている。いまの敏弘が千秋のいない生活など考えられないように、彼女にも敏弘のいない生活などあり得ない。千秋は、敏弘がいなければ、生きていけない……。 生きるために――。 それは、敏弘が仕事をして給料を運んでくること、ではない。むろん、生活のためにはそれも必要だろうが、千秋には、もっと根本的な意味で、敏弘が必要なのだとしたら――生きるために……。 電車がスピードを落とした。 前に立っている学生風の若者たちがドアのほうへ移動をはじめた。 それにつられるようにして、敏弘もシートから腰を上げる。 飼われているのだろうか。 と、敏弘は考えた。 千秋は、敏弘を自分の必要のために飼育しているのだろうか。 毎晩繰り返される激しいセックスは、敏弘から意識を奪うための手段であり、彼女の本当の行為は、その直後から開始される――。朝の脱力感。あれは、敏弘の中身がすべて彼女に吸い尽くされた結果なのではないか? 窓の外が明るくなった。 電車が日本橋駅に着く。ドアが開くと、学生たちに続いて敏弘も電車を降りた。改札へ向かってゆっくりと歩き始める。 だから、なんだ。 と、敏弘は思った。 千秋が敏弘を必要としているなら、それでいいではないか。毎晩、生命を吸い取られたとしても、彼女は敏弘のために「元気ジュース」を運んできてくれる。閉じられた窓が、夜、敏弘をそこから逃がさないようにするためのものだったとしても、ゴキブリが「元気ジュース」の原料だったとしても、そんなことはどうでもいいではないか。 なぜなら、敏弘は千秋を愛しているのだから。 それが一番、大切なことではないか。愛しているのだから。 敏弘は、ホームを歩き続けた。 彼の瞼の裏には、千秋のあの美しい微笑みが映っている。 |