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ホームの最後尾には、まるで人がいなかった。
前のほうには、ポツポツと利用客の姿も見えるが、古関の立ち止まったこ
の周辺には彼以外の誰の姿もない。
ズボンの尻のポケットから、古関はさきほどまで見ていた小冊子をまた取
り出した。
「定款及び約款」と表紙に書かれている。辞書を引いて「ていかんおよびや
っかん」と読むのだと知った。「款」なんて文字を、学校で習っただろうか
?
ページを繰って目的の場所を探し出した。恐ろしく読みにくい文章が並ん
でいる。
「1手の母指もしくは示指の用を全く永久に失ったか母指もしくは示指を含
んで2手指以上の用を全く永久に失ったかまたは母指および示指以外の2手
指もしくは3手指の用を全く永久に失ったもの」
いったい、この文章は、なんなのだ?
これは、ほんとうに日本語なのか?
この場合に、保険金の1割がもらえるというのだけれど。
これは、わざとわかりにくく書いて、なるべくカネを払わないようにしよ
うという魂胆に違いない。にもかかわらず、この生命保険の説明書の表紙に
は赤い字で「必ずお読み下さい」と書かれている。読まないで、あとで文句
を言ってもダメですよ、というわけだ。
ずるい奴らじゃないか。
「母指」というのは、どうやら親指のことらしい。「示指」は人差指のこと
だ。「1手」というのは、将棋の1回分の差し手のことではなく、片方の手、
という意味らしい。
さらに「用を全く永久に失う」というのは、ようするに一生使えなくなる
という意味なのだ。
つまり「1手の母指もしくは示指の用を全く永久に失った」は「片方の手
の親指か人差指が一生使えなくなった」ということであるらしい。
ふう、と古関は息を吐き出した。
ここまで読解するのに、えらい時間がかかった。
この文章を書いた人間は、たぶん「日本語の用を全く永久に失った」ヤツ
であるに違いない。
親指か人差指がぜんぜん動かないような怪我をして、それで1割……つま
り、五千万の保険金なら五百万円か。
ちょっと割に合わないかなあ。
古関は、自分の左手の指を眺めた。
その親指と人差指で、自分の鼻をつまんでみる。
痛いだろうなあ……。
その指を切断したときのことを想像して、彼は顔をしかめた。
指切り落としたりしたら、やっぱり、ものすごく痛いだろうなあ。
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