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 24:09 銀座駅
 米良ヒロコ
(めら ひろこ)


     もちろん、今のヒロコにとって、内海は特別の存在だった。
 彼と話をするのは楽しいし、気持ちが和む。年甲斐もなく、と自分自身でも思うけれど、心にときめきのようなものを感じることだってある。明日は内海とどこへ行こうかと考えていると、どこか遠い昔に失ったものを取り戻そうとしているような感覚さえある。

 だけど……と、ヒロコは思った。

 だけど、私が望んでいるのは、たぶんこの人と一緒になることではないだろう。
 内海に限らず、いまさら誰かの妻になるなどということはまっぴらだった。
 もう82年も女をやってきたんだもの、いいかげん、そのお役目は御免こうむりたい。死に別れた亭主には50年以上も仕えた。4人の子供を育て上げ、その4人もすでに老人の仲間入りをしはじめている。孫が9人、曾孫も3人いる。

 いまさら、結婚なんて……。

「むろん、いますぐに返事がほしいとは申しませんよ」
 内海が言いながら、手の甲で鼻の頭をこすりあげた。照れると、内海の皺だらけの顔が、さらに皺くちゃになる。細い目がもっと細くなって、周囲の皺の中へ潜り込んでしまう。

「はいはい」
 と、ヒロコは笑顔で言った。
 その返事をどう受け取ったものか、内海は満足そうに何度も頭をうなずかせた。

 内海もヒロコも、お互いに一人暮らし。身寄りがないわけではないが、子供たちとは離れて暮らしている。
 息子たちは、交代で面倒を見ると言ってくれた。その気持ちだけ、ありがたくいただいた。
「1人のほうが気楽でいいのよ」
 そう言うと、息子たちのそれぞれの表情に、複雑なものが現われた。自分勝手な親だという気持ちと、1人ではかえって心配だという気持ち、そして……どこかホッとしたような顔の色が、その中にあった。

「笑われるでしょうが」と内海が言った。「僕は、学生時代のようにドキドキしているんですよ」
 ヒロコは、その内海に微笑むだけの表情を返した。

 学生時代、か……。

 どういうわけか、女学校時代のことを、ヒロコも最近よく思い出す。
 兄の自転車に乗って転倒し、足に痣をつくって母から叱られた。練習を許してもらえないのだから、乗り方が下手なのはあたり前だった。兄を羨ましく思い、その兄の友人に恋をした。恋は実ることもなく、いつしか消えた。その人とは、口をきいたことすらなかった。

「若いころは、お美しかったでしょうね」
 内海に言われ、ヒロコは、え? と彼を見返した。
 気がついたように、内海は頭を掻いた。
「いや……もちろん、いまもお美しいが」
 あはははは、とヒロコは笑った。
「こんなおばあさんをつかまえて、なにをおっしゃるかと思えば」
「いえいえ。本当の感想です。あんたは、いつも輝いている」
「いやですよ」

 笑いながら、ヒロコは首を振った。

 でも、そうかもしれない、と思う。
 あたしは、今が一番輝いているのかもしれない。
 一人で暮らすようになって、はじめて自分の時間というものを持った。こんな時間に電車に乗るという不良のような真似も、今だからできる。自由に内海と会うこともできるし、図書館から借りてきた本を一日中読んでいることだってできる。好きな時間に好きなものを作って食べ、好きなように床に入る。誰の世話をする必要もないし、周囲に気を遣うこともいらない。

 幸せだ、とヒロコは思った。
 だから、この幸せは、誰にも邪魔されたくない。たとえ、それが内海能章であったとしても。

「おとつい、曾孫から贈り物をもらったんですよ」
 内海が言って、ヒロコは顔を上げた。


 
    内海能章

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