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 24:11 銀座駅
 高須伸嗣
(たかす のぶつぐ)


     伸嗣だって性器なんかどうだっていいと思うことはある。
 よく、そう思う。

 チンポコがあるかないかなんて、ほんとうはどうでもいいことだ。もちろん、それは本質的なことじゃない。
 恵利子が言うように、大切なのは自分がどう生きるかってことだし、どれだけ人を愛せるかってことだ。

 以前、お店の友人がプレゼントしてくれた性具を試してみたことがある。
 それは、男性器の形をしたバイブレーターだった。革のベルトで腰に装着できるようになっているものだ。そのかなり滑稽な形状の代物を、伸嗣は裸の腰に装着し、鏡の前に立ってみた。恵利子は、それを見てゲラゲラと笑った。

 その鏡の中の自分を眺め、伸嗣は、言いようもなく悲しい気持ちに襲われた。

 ちがう。

 自分が望んでいるのは、こういうことじゃない。
 手術をして男性器を取り戻したいと思っているのは、こんなばかげた格好をするためなんかじゃない。

 革のベルトを外し、それを床に放り出した。
「どうしたの?」
 恵利子が、驚いたように訊いた。
 伸嗣は、黙ったまま首を振った。
「ごめんなさい。笑ったりして悪かったわ。そういうつもりじゃなかったの」
「そうじゃないよ」
 言って、伸嗣はトランクスに足を通した。

「気分悪くしたなら、あやまるから……」
 首を振りながら、伸嗣は恵利子を見返した。
「ちがうんだって。そんなことじゃない」
「ノブくん……」
 恵利子は、伸嗣の眼が潤んでいるのを見て、そのまま口を閉ざした。
 服を着て、部屋を出た。

 ちがう。
 あんなことじゃない。

 なにか、無性に腹立たしかった。
 腹立たしく、そして寂しかった。
 装着してみた性具は、ことさら自らを誇張してみせるように、いくぶん上を向いて突き出していた。表面は黒く、革ベルトも黒い。その底光りしている黒い感触が、いかにも毒々しかった。

 自分で自分をバカにしたようなやり切れなさが、伸嗣の気持ちをふさいでいた。
 歩いている伸嗣の後ろに足音が聞こえ、ポン、と背中を叩かれた。
「…………」
 振り返ると、ニコニコ笑いながら恵利子が立っていた。
「映画、観に行かない?」
 ほとんど無理矢理のように引っぱって行かれた映画館では、SF映画をやっていた。その映画の間中、恵利子はずっと伸嗣の手を握り続けていた。

 男性器がついていればいいというわけじゃない。
 手術を望んでいるのは、自分の心の、この腹立たしさや寂しさを情けないと思っているからだ。チンポコがほしいのは、この常に抱え続けている脅えた心を、安らかにしてやりたいからだ。

 本来の自分の身体を持っていないことが、伸嗣にとっては不安だった。子供の頃から、ずっとその不安を抱えて生きてきた。
 世の中で一番嫌いなものが自分の身体なのだ。それは、自分ではない。間違ってまとってしまった仮の形なのだ。

 その不安は、性具などでは拭えない。
 拭うどころか、装着した性具は伸嗣の心の底にあるものを、黒く滑稽な形で鏡に映し出しただけだったのだ。

 映画館の中で、伸嗣は恵利子に握られた手をゆっくりと撫でた。
 恵利子は、隣のシートから伸嗣に笑顔を向け、うん、とうなずいてみせた。

「ありがとう」
 伸嗣は、小さく恵利子に言った。


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