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 24:12 京橋-銀座
 石垣和博
(いしがき かずひろ)


     3年……。

 もう、3年がすぎた。
 妙子の記憶が、多くの人々の中から失われてしまった。彼女の家族でさえ、妙子を思い出すことをやめてしまったように感じる。

「忘れなさい」
 と、多くの人が石垣に言った。

 石垣には不可能だった。
 なぜなら、この脇腹が妙子の指を覚えている。
 その指に触れることは、もう二度とないのだろうか。妙子の笑顔を見ることは、もうないのだろうか。

 妙子が記憶にしか存在していないのなら──記憶を辿った先に見つかるものが何もないのなら、その記憶は忘れ去られるべきなのだろうか?

 石垣は眼を閉じた。
 ゆっくりと、大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
 乾き切った空気が、鼻孔にヤスリをかけていく。

 会いたい──。

 石垣は思った。
 妙子に会いたい。

「怒らない?」
 記憶の中で妙子が訊く。
「怒らないよ。なに?」
「あなた、真面目すぎる」
「…………」
「真面目が悪いんじゃないけど、もうちょっと不真面目なとこあってもいいなあって思ったりするの」
「僕って、つまらない?」
 瞼の裏で、妙子は笑いながら首を振る。
「そうじゃない。なんて言ったらいいかわかんないけど、ときどき、疲れちゃわないかなって思うんだ」
「────」

 疲れたよ……と、石垣は記憶の向こうへつぶやいた。
 本当に疲れた。

 実際、自分がわからなくなっている。
 3年探して見つからなかった。3年待ち続けたが、妙子は戻っては来なかった。では、いつまでこれを続けるのだ? 5年? 10年? それとも……。

「まもなく銀座、銀座です」
 アナウンスに、石垣は眼を開いた。
「丸ノ内線、新宿方面行の最終電車、21分。日比谷線は中目黒行、17分の発車です。なお、北千住方面は終了しておりますからご注意を願います。銀座でございます。お乗り換えは、中程の階段、ご利用ください。銀座でございます」

 どうして、この電車に乗っているのだろう。
 零時2分上野発、渋谷行。もう、数え切れぬほど、この電車に乗った。
 何度乗っても、妙子は帰ってこない。手がかりもつかめない。
 では、なぜ乗るのだ?

 電車に乗って何かが変わるとは、もう石垣自身も思ってはいない。そうしているうちに妙子に会えると確信しているわけでもない。
 じゃあ、いったい何をしている?
 電車に乗って石垣がすることは、3年前の記憶を辿ることだ。すでに何万回と辿った記憶を、さらに重ねているだけだ。

 会いたい……。

 そう思う。
 しかし──。
 妙子との再会があると信じているのかどうか、そのことすら、今の石垣にはわからなくなっている。

 ガクン、と電車が揺れた。
 前方から銀座駅のホームの照明が、電車の窓を次々に白く光らせていく。その光の輪が、まるで石垣を追いつめているように感じた。

 向かいの電車はまだ来ていない……。

 なんとなく、石垣は思った。
 銀座駅では、上りと下りの電車が向かい合って停車する。この電車が到着していくらもたたないうちに、ホームの反対側にも電車が入ってくる。

 電車が停車し、石垣の脇でドアが開いた。
「ご乗車ありがとうございます。銀座でございます。忘れ物、落とし物ないよう、ご注意ください。1番線は渋谷行、2番線に参ります電車は浅草行最終電車でございます」

「…………」
 どことなく妙な雰囲気を感じて、石垣は、ホームの向こうを眺めた。
 小柄な男がドアから乗り込んできて、その男の発しているオーデコロンの匂いに一瞬気を取られた。

 何かが妙だった。
 ホームの空気が、どこか普通でないものを感じさせる。それが何であるのか、よくわからなかった。
 ホームにいる人々が、スローモーションの画面を見るように動いていた。


     小柄な男

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