『解説』 ―― 笠井 潔  
 
 
 岡嶋二人のデビュー作は、一九八二年に江戸川乱歩賞を受賞した『焦茶色の
パステル
』である。この名前は、徳山諄一と井上泉の共作によるペンネームで
あり、映画「おかしな二人」から採られたものだという。岡嶋二人は、日本で
は少ない共作ミステリー作家として、デビュー当時から熱心な注目を集めた。
 翌年には、第二作の『七年目の脅迫状』、第三作の『あした天気にしておく
』(八一年度の乱歩賞候補作。刊行時期は前後するが、『焦茶色のパステル
よりも先に書かれていたこの作品が、岡嶋二人の事実上の処女作になる)と、
水準の高い競馬ミステリーを続けざまに発表し、ミステリー作家としての地位
を確立した。
 しかし、岡嶋二人はディック・フランシスのような、競馬ミステリー作家と
しての道を歩んだわけではない。その後は、ボクシング(『タイトルマッチ』)、
野球(『ビッグゲーム』、『殺人!ザ・東京ドーム』)、コンピュータ(『
ンピュータの熱い罠
』)、ゲーム(『クラインの壺』)など、多彩きわまりな
い現代的な素材に新鋭作家として挑戦し、いずれも見事な成功をおさめた。こ
の作家には珍しい社会派的色彩の傑作『チョコレートゲーム』で、一九八六年
度の日本推理作家協会賞を受賞し、さらに本作『99%の誘拐』では、一九八九
年度の吉川英治文学新人賞を受賞している。
 前後八年にわたる、岡嶋二人の旺盛な作家活動は、一九八〇年代の日本ミス
テリー界に新鮮な衝撃をもたらした。さしあたり、この作家のきわめて個性的
な位置について考えてみよう。
 松本清張を代表作家として、一九六〇年代に全盛をきわめた社会派ミステリ
ーだが、七〇年代に入ると、次第に惰性化してジャンル的な活性力を喪失しは
じめる。おそらくその結果だろうが、一九七〇年代後半から八〇年代前半にか
けて、空洞化した社会派ミステリーに飽きたらない有力新人が、日本のミステ
リー界に次々と登場しはじめた。
 それは、泡坂妻夫、連城三妃彦、竹本健治、栗本薫、島田荘司、等々である。
雑誌「幻影城」の出身者が多いことからも窺われるように、これらの新人は共
通して、形骸化した社会派ミステリーに対し、むしろ「新青年」的な戦前の探
偵小説の復活をめざした。ミステリー世界にリアリズム文学の質を導入した松
本清張などにより、一度は葬りさられた「新青年」的な探偵小説の継承者であ
る新人作家を、社会派に対して、仮に「新・探偵小説派」と呼んでおきたい。
 横溝正史の突然の復活にも見られたように、そこには一九七〇年代後半から
の時代的な気分も介在していたのだろう。おどろおどろしい伝奇的な犯罪、現
実性を欠いているにせよ奇抜で華麗なトリック、昔なつかしい天才型の名探偵、
等々として特徴づけられる探偵小説趣味の充溢した作品が、これらの作家たち
により続々と書かれるようになる。その後継者として、八〇年代後半には綾辻
行人や法月綸太郎など、「新本格」を標榜する新人群が登場してくる。
 社会派ミステリーと、その解体形態であるトラベル・ミステリーを現代日本
ミステリーの量的な主流派とみなせば、泡坂妻夫や竹本健治や島田荘司など新
・探偵小説派から「新本格」の新人作家にいたる系譜は、その反主流派として
位置づけることができる。しかし、この構図からはずれてしまう有力作家が、
明らかに存在するのである。
 たとえば、岡嶋二人。
 この作家を外見的に特徴づけているのは、スピード感のある軽妙な文章、自
然に造形された魅力的な人物、背景や小道具として活用される都会的な風俗と
ハイテク機器、等々の諸点だろう。以上からだけでも、個性的なミステリー作
家として評価されて不思議ではないのだが、もちろん問題はそれにとどまらな
い。
 岡嶋二人が、『焦茶色のパステル』をはじめとする競馬ミステリーで作家的
地位を確立したことは、この作家について考えるうえで、きわめて暗示的な事
実である。この作家の競馬ミステリーでは、あまり人間は死なないかわりに、
馬が何頭も殺される。すでに少なからぬ評者から指摘されている点だが、岡嶋
二人のミステリー作品では殺人事件が中心的である例が、比較的少ない。
「新青年」的な探偵小説では、冒頭に戦慄的な謎をはらむ残虐な殺人事件が設
定されるのが常道であり、『占星術殺人事件』の島田荘司をはじめ一九八〇年
代の新人作家の多くが、この古典的伝統を踏襲している。
 リアリズムの手法をとる以上、設定が非現実的になることは避けるにしても、
殺人事件を好む点では社会派も同様である。社会派は、犯罪の動機の社会的背
景を重視するわけだが、それが殺人にまで行きついてしまうときにようやく、
社会派ミステリーが成立する。平凡な生活者の存在と、犯罪という異常な事件
の落差から生じる謎を追求し、そこに社会的な背景を発見するのが社会派ミス
テリーの構造であると要約することも可能だろう。
 競馬ミステリーの初期三作のうち、処女作である『あした天気にしておく
』では殺人は起こらないし、他の二作にしても殺人事件を中心にして組み立
てられた作品とはいえない。虚構の殺人を忌避する傾向において、岡嶋二人は
社会派ミステリーの流れとも、新・探偵小説派の流れとも異なる独自性を、す
でに登場の時点から暗示していたようだ。
 この作家は、人命尊重の観点から虚構においても、できるかぎり殺人を忌避
しようと努めているわけではない。その証拠に、サスペンス小説『クリスマス
・イヴ
』の作中では、映画「十三日の金曜日」のジェイソンを思わせる殺人鬼
が雪の別荘地を徘徊し、血まみれの死体が山をなしている。このようにサスペ
ンスの興味を主眼にした場合には、岡嶋二人も、作中に惨殺死体を山ほど導入
することは厭わないのである。
あした天気にしておくれ』は、競馬ミステリーであり、同時に誘拐ミステリ
ーでもある。ただし誘拐されるのは、人間でなく競走馬だが。岡嶋二人の長編
では、処女作以来、誘拐テーマがとても多い。そして、その最高傑作として本
作『99%の誘拐』がある。
 謎めいた死体を中心にして構成される本格ミステリーの常道を踏襲すること
なく、しかも謎の解明を主眼としたミステリーを書こうとするなら、誘拐、詐
欺、謀略などのテーマが浮上してくるのも必然的である。ようするに岡嶋二人
は、社会的な動機にかられた犯人による殺人事件にも、それ自体が戦慄的なオ
ブジェにほかならない、探偵趣味の横溢する惨殺死体にも依存することなく、
斬新なゲーム性に満ちたミステリー世界を築きあげようと試みたのだろう。
 これはミステリー作家として、やはり独創的な姿勢である。古典的なミステ
リー作品の中心には、しばしば被害者の死体に象徴されるところの犯罪が設定
されている。読者は、だれが、なぜ、いかに、その犯罪を実行したのかをめぐ
る謎に魅惑され、ページをめくり続けるわけだ。ようするに古典的なミステリ
ーの構造では、事件はすでに起こり、謎はすでに完結したものとして読者に提
示される。その後の興味の中心は、謎の論理的な解明の過程におかれる。この
種の面白さは、たとえれば詰め将棋の面白さだろう。あるいはカードが配られ
た後のポーカー。どちらにせよ、当事者に明らかにされていないだけであって、
結果(真相)はすでに提供されているのだから。
 それに対して競馬でもサッカーでも、ほとんどのスポーツ競技の興味は、だ
れにも結果(真相)が判らないところにある。このように詰め将棋にも競馬に
も、ゲーム的な面白さはあるのだが、その性格は歴然と異なっているのである。
一方はスタティックであり、他方はダイナミックであると特徴づけられるかも
しれない。
 誘拐テーマをはじめ、詐欺テーマや謀略テーマのミステリーは、古典的なミ
ステリーのように最初にあたえられた謎を、探偵=読者が一方的に解明してい
くのではなく、対立するゲーム・プレーヤーが相互に手を読みあい、相手の裏
をかくようにしてストーリーを進行させていく。謎はすでにあたえられている
のではなく、むしろ過程的に増殖していくのである。
 岡嶋二人が、あまり作中で殺人事件を起こさないタイプのミステリー作家で
あるのは、詰め将棋よりも競馬やサッカーを、ようするにゲームのダイナミッ
クな面白さを追求した結果ではないだろうか。この作家は誘拐テーマを好み、
残念ながらコン・ゲームもの、スパイものには手を染めていないのだが、もし
も挑戦したとすればアーチャーやフリーマントルに匹敵する傑作が書かれたか
もしれない。
 岡嶋二人は、一九八九年の『クラインの壺』を最後の作品として、コンビ
の解消を宣言した。岡嶋二人として活動した最後の三年間から、代表的な傑作
をあげるとすれば、一九八七年『そして扉が閉ざされた』、八八年『99%の
誘拐』、そして八九年『クラインの壺』の三作になるだろう。三傑作の二番
目に位置する本作は、先にもふれたように、この作家にとって中心テーマであ
る誘拐ミステリーの最高作である。読者は、パソコンやハンディトーキーから
モーターボートやスキーまでを駆使して捜査陣を煙にまく、絶妙に計画された
誘拐犯罪のスリルを最後まで楽しむことができる。
 コンビは解消されたが、徳山諄一と井上泉の二人が日本のミステリー・シー
ンから退場したわけではない。今後は二人それぞれに、精力的な活動を続ける
ことが約束されている。(井上泉は井上夢人のペンネームで、すでに新作『
たりは一人
』を雑誌連載中)
 であれば岡嶋二人の作品が、これからは二倍も読めることを期待できるわけ
で、ファンには楽しみなことである。
 
   一九九〇年七月