『解説』 ―― 香山二三郎  
 
 
 わが国に初めて野球を伝えたのは、東京・神田の大学南校(のちの東京大学)
の教師として来日したアメリカ人ホレス・ウィルソンだといわれる。一八七一
年(明治四)のことだ。その六年後の七七年にはアメリカ留学から帰国した鉄
道技師・平岡吟舟も本場仕込みの野球を紹介、やがていくつものアマチュア・
チームが結成され、以後、野球は学生たちを中心に急速に普及していく。
 だが、プロ野球が誕生するまでには、まだしばらく時間がかかった。その間、
"職業野球"の胎動もいくつか見られはしたが、実際にわが国のプロ野球史が始
まるのは、伝来から六十三年を経た一九三四年(昭和九)からであった。きっ
かけは読売新聞社が催した日米野球である。その第十戦で京都商業の速球投手
・沢村栄治がアメリカ大リーグ選抜チームをルー・ゲーリッグのホームランに
よる一点だけに抑えるという快投を演じたのは有名な話だが、このときの全日
本メンバーが主体となって、日本初のプロ野球チームが誕生する。チーム名は
「大日本東京野球倶楽部」、現在の読売ジャイアンツの前身である。

 のっけから日本野球史を書き連ねたのは外でもない、本書で描かれているの
はわが国にプロ野球が誕生してからちょうど五十年後の出来事に当たるからだ。
 その間、プロ野球界は運営面や建設面、技術面でも様々な革新を経てきた。
一九四八年(昭和二十三)八月十七日の巨人対中日戦で初めてナイターが行わ
れたのを皮切りに、その二年後からはセ・パ両リーグによる二リーグ制が施行
され、五三年(昭和二十八)八月二十九日の巨人対阪神戦からはTV中継も始
まる。六五年(昭和四十)には、第一回新人選抜会議(ドラフト会議)が開か
れ、野放し状態の新人争奪戦が規制されるようになり、六九年からはいわゆる
"黒い霧事件"が球界に吹き荒れ、数人の選手が永久追放に処せられた。七三年
(昭和四十八)からパ・リーグでは二シーズン制が始まり、翌年には投手の
"セーブ記録"が認められるようになった。さらに七五年にはパ・リーグで"指
名打者制"が始まり、翌七六年には後楽園球場が日本初の人工芝球場に改装さ
れた……等々。
 最近でも、八八年(昭和六十三)のシーズンから、後楽園球場が屋根付きの
「東京ドーム」に生まれ変わったことは記憶に新しい。野球のスタイルそのも
のは、一見五十年前と大差ないようにも思えるが、こうして見てくると、総体
的な実状はもはや雲泥の差というべきだろう。忘れてならないのは、様々な革
新は何もわれわれの目に映るところでだけ起きているとは限らないということ
である。
 本書で扱われている高度情報処理システムによる「データ野球」なども、ま
さしくその代表的な例といっていいのではあるまいか。著者は初刊本の「著者
のことば」で次のように述べている。
 
 プロ野球一シーズンを通じて全球団で取り交されるサインは、少なく見積も
っても、四十万回を超える。ゲームにかかわる人の数が増えれば、それだけ情
報の量も増大する。/交される情報のほとんどは、我々の目に触れないところ
で集められ、処理されている。その目に見えない情報戦という大きな闘いをミ
ステリーとして組み上げてみた。
 
 もっともプロ野球でデータが重視されるようになったのは、まだ近年のこと
といっていい。試合状況を記録する係をスコアラーというが、日本のプロ野球
のスコアラー第一号が誕生したのは一九五四年(昭和二十九)のことであった。
毎日新聞社の記者を勤めていたその人、尾張久次は南海ホークスの監督鶴岡一
人に請われて入団した当時の経緯を次のように語っている。
 
 そのころの各球団の選手に対する査定というのは、代表が選手に新聞の切り
抜きを示して、おまえは最終的に何割打ったからなんぼ、何勝あげたからなん
ぼというようにじつにいい加減なやり方ですわ。しかし一年分の統計をとって
みると、同じ一本のヒット、同じ一勝でも、価値のあるものとそうじゃないも
のとが、数字としてはっきり出てくるわけです。ピッチャーとバッターの相性
のよしあしも分ってくる。その話を南海の監督だった鶴岡さんにしたんです。
そうしたら鶴岡さんがそれはなかなか面白いといってくれて、南海で仕事をし
てみんかということになったんです。
(朝日文庫版・瀬老沢泰久『球界裏の演出者たち』所収「スコアラー」より)
 
 いわゆる「尾張メモ」は南海の優勝に多大な貢献を果たし、やがて各球団も
氏に倣ってスコアラーを置くようになる。むろん現在ではスコアラーの地位も
格段に向上した。
 
 三十年のあいだにスコアラーの重要性は飛躍的に増大し、ちゃんとしたチー
ムはだいたい五人のスコアラーをかかえている。先乗りスコアラーが一人、先
乗りのビデオ係が一人、チーム付きのスコアラーが二人、チーム付きのビデオ
係が一人という構成である。
  (同書より)

 一九七九年(昭和五十四)、尾張氏は二十五年勤めた南海から西武ライオン
ズに移籍、監督が広岡達朗に代わった八二年から西武が二年連続日本一になっ
たときも先乗りスコアラーとして活躍する。"管理野球"の推進者として名を馳
せた広岡監督がデータを重視したことはいうまでもあるまい。
 ちなみに本書は雑誌「週刊現代」の昭和五十九年五月五日号から同年十二月
二十二日号まで連載されたのち、翌六十年十二月に講談社ノベルスから刊行さ
れた。まさに広岡西武が三連覇目指して始動したときに連載も始まったわけで、
著者の脳裏にそれまで広岡西武が見せたデータ野球が強く焼きついていたこと
は想像に難くない。本書に登場する梶浦監督率いる新日本アトラスが、広岡監
督率いる西武ライオンズを下敷きにしていることは明らかであろう。
 
 さて、野球の話が長くなった。小説の内容のほうにも目を向けてみよう。岡
嶋小説の特質は何といっても歯切れのよさにある。本書でも、第一章からいき
なりゲームのクライマックスで球場の照明が消え、資料課員のひとりが照明塔
から落下するという事件が発生する。サスペンス・スリラーには、緊迫したム
ードを小出しにして徐々にサスペンスを高めていく手法と、のっけから緊迫し
た状況を設定して読者を一気に巻き込んでいく手法とがある。著者は作品に応
じて両者を巧みに使い分けているが、本書は『タイトルマッチ』(カドカワ・
ノベルズ)や『どんなに上手に隠れても』(徳間文庫)などの誘拐サスペンス
ものと同様、後者に属するわけだ。
 新日本アトラス資料課は佐伯智則と松橋涼子を中心に、墜死した沼部が照明
塔で何をやっていたかという謎を追及し始めるが、それと同時に第二の事件が
発生し、さらにそこに意外な事実が判明するといった具合に、次から次へと衝
撃的な出来事が積み重ねられていく。岡嶋ファンなら氏の作品がいずれも細か
く章割りされていることにお気づきかと思うが、本書でも全体が六十四もの章
に細分化されている。ワン・シーン、ワン・カットならぬ、ワン・シーン、ワ
ン・チャプターといった按排だが、岡嶋小説の歯切れのよさを支えているのは、
何よりそうした章割りを生かした重層的なサスペンス話法にあるのだ。
 また、それと同時に、物語が映像的な変化に富んでいる点も岡嶋小説の強み
である。とりわけ、牢獄のように周囲を閉ざされた地下の資料管理室から一転
して光に満ち盗れた広大な球場へ、さらに球場を一望できる隣接ビルの屋上へ
と、視点がリレーされていくスパイのあぶり出し場面は圧巻の一言。広狭の変
化と明暗の変化、そして地下から屋上へという上下の変化を伴ったその一連の
シーンは、中盤のクライマックスに相応しい映像的サスペンス効果を上げてい
る。
 映像的な意味でも様々なサスペンス技法に長けている点では、岡嶋小説はヒ
ッチコック映画のそれに匹敵しよう。本書の冒頭で謎解きの鍵として提出され
る写真など、ヒツチコックのいう〈マクガフィン〉そのものだ。冒険活劇小説
では機密文書の争奪戦を描いたものが少なくないが、〈マクガフィン〉とはそ
の機密文書のように話を引っ張っていくうえでの単純な道具立て、ひとつのき
っかけにしか過ぎない仕掛けを意味する。著者はヒッチコック映画の基本原理
といわれるこの仕掛けをいとも鮮やかに使いこなして見せる。
 そう――岡嶋二人は日本のヒッチコックなのだ!
 
 ところで、野球ファンの中には本書で描かれているようなことが現実でも行
われているのではないかと心配される向きもあるかと思う。そういう人のため
に、最後に広岡達朗の『意織革命のすすめ』(講談社文庫)の中の一節を引用
しておくとしよう。
 
 プロ野球界で非合法なスパイ行為が横行しているという噂は、かなり以前か
らあった。センター後方から望遠鏡で捕手のサインを盗んで打者に教えるとい
う初歩的なものから、盗聴器や電波発信器などの科学兵器を利用する、手のこ
んだ盗みもあるという。(中略)こうした非合法なサイン盗みは、カンニング
する学生の愚かさと似ている。たとえ、試験に合格しても、学力不足という事
実に変わりはないのだから……。