『解説』 ―― 長谷部史親  
 
 
 近年の推理小説にとくに顕著に見られる傾向のひとつに、"サイコ・サスペ
ンス"と呼ばれるものがある。"サイコ"という言葉は、ひと昔以上前のアルフ
レッド・ヒッチコック監督の名画『サイコ』などのおかげもあって、おそらく
世間一般にもいささかなじみがあると思う。すなわちここでいうサイコ・サス
ペンスとは、精神面で多少なりとも常軌を逸した人間に視点を据え、彼(もし
くは彼女)が、その精神面の特異性のゆえに、犯罪に関わってゆくことによっ
て醸し出されるサスペンスを軸としたタイプの作品をさしているわけである。
 たとえば本文庫の海外シリーズでもいくつか出ている英国の女流作家ルース
・レンデルは、ウェクスフォード警部を主人公とする本格推理小説シリーズと
は別に、『わが日の悪魔』などサイコ・サスペンスの名手としても知られ、日
本ではむしろそちらの方面で多くの愛読者を獲得してきた。またアメリカや日
本でも、こういった傾向の作品は徐々に増えつつあるように思われる。
 おそらくこれは、現代社会において、技術革新が幾何級数的ともいえるほど
急速に推進されたことと無縁ではあるまい。科学技術の向上によって高度に
"文明化"された社会では、そこに属する人間は、ごく一部をのぞいて、おのず
から画一化されてしまう。本来はひとりひとり異なった個性を持つ人間が、自
身を一定の窮屈な型に無理やり合わせようとすれば、それなりにストレスもた
まろうというものである。そしてそのストレスは、本人が意識するとしないと
にかかわらず、いつしか危険な沸騰点に達し、何らかの反逆作用をもたらす。
まして精神面に生来のもろさがあれば、それが恐るべき犯罪に直結する場合も
あろう。エンターテインメントには、社会を映す鏡としての機能があるなどと
よくいわれるが、そうした観点から考えると、サイコ・サスペンスの作例が目
立ってきているのは、洋の東西を問わず、現代社会の歪みの一面が反映されて
いるからだという見かたもできるのではあるまいか。
 本書『殺人! ザ・東京ドーム』も、基本的にはサイコ・サスペンスと捉え
ることができる。主人公の久松敏彦は、知能が水準よりやや低いために、少年
時代から周囲の人々にひどく冷たくあしらわれてきた。現在の勤務先の上司に
も愚か者扱いされ、頭ごなしに怒鳴られたりしている。そうこうするうちにす
っかり人ぎらいになってしまい、他人とまともに言葉をかわすこともできずに、
都会の真ん中で孤独な毎日を過ごしている。行きつけのクリーニング店の店番
の若い女性に強い思慕を寄せているものの、相手も自分に好意を抱いているに
ちがいないという幻想を抱くだけで、その気持ちを打ち明けることなどとうて
いできない。
 だがそんな彼にも人間としての誇りがある。自分にも何らかの力があるはず
なのにと思いつつ、無視され、いじめられ、バカにされているうちに鬱屈した
ものを、無力な虫を殺すことで発散し、辛うじて精神のバランスを保ってきた。
ところが彼は山道で偶然にも、強力な毒物を手に入れてしまう。この毒物は、
テレビ番組制作プロダクションのディレクターが、南米のアマゾン川流域の奥
地からひそかに持ち帰ったクラーレで、矢の先に少量塗って射込むと即効性を
発揮するという、まことに物騒なしろものである。犬を実験台にしてその猛威
を確認した主人公は、にわかに自分の力に自信をもち始める。そしてそれがた
めに彼の精神のバランスが崩れ、ついに常軌を大幅に逸脱してしまう。その結
果として彼が歩み始めた道は、東京ドームを舞台とする無差別連続殺人であっ
た。
 一般に推理小説では、不思議な状況における犯罪事件が好んで描かれてきた。
現場に犯人が出入りすることが一見して不可能なのにもかかわらず、他殺死体
がころがっているという密室殺人などはその一例である。一方それとは逆に、
衆人環視の中での殺人も、魅力的な趣向のひとつとして、これまで多くの作家
によって試みられてきた。犯行がなされた時点で現場には多くの目撃者がいた
はずなのに、犯人の正体や犯行の瞬間など肝腎なことは皆目わからない。これ
もまた、とびきり不思議な状況であろう。
 推理小説において殺人が企てられる場合、ふつうは万が一にも第三者に目撃
されないよう、きわめて周到に計画が練られるものである。指紋や遺留品など
の物的証拠を残さず、誰かに見られる危険さえ冒さなければ、もしかしたら捜
査の手をかいくぐることができるかもしれない。それゆえ、人間が大勢集まっ
ているまっただ中で殺人を敢行するアイデアを生み出すだけでも、相当の工夫
を要するのである。
 本書『殺人! ザ・東京ドーム』では、そうした衆人環視の中の殺人という
趣向がまず目をひく。表題からも自明のように、舞台は巨人対阪神戦というプ
ロ野球で屈指の好カードが組まれ、五万六千の大観衆を呑み込んでいる東京ド
ームである。まさに日柄はよし、舞台も道具だてもよしといった具合で、本書
の主人公が狂気に駆られた彼なりの自己を主張するには好適な条件を備えてい
た。
 プロ野球を題材に選んだ推理小説はいろいろとあるが、試合中の殺人を扱っ
たものとして思い出されるのは、有馬頼義の『四万人の目撃者』(光文社文庫
刊)である。そこでは、全盛期を過ぎた人気チームの主力打者が久々に外野深
くに好打を放ち、快調に一塁、二塁を蹴って三塁ベース直前まで達したときに
突如昏倒し、そのまま息を引き取るのが発端であった。間もなくこれが計画殺
人と判明し、そのとき観覧席を埋めつくしていた四万の観衆が目撃者だという
のが題名の由来である。この一編は、仁木悦子や松本清張らによって切り拓か
れた昭和三十年代の推理小説ブームの際に生み出され、戦後日本推理小説の代
表的作品のひとつに数えられてきた。些末なことだが、このときの満員の観衆
四万と、本書『殺人! ザ・東京ドーム』の五万六千という数字の差からは、
約三十年間の時の推移がしのばれよう。
 岡嶋二人氏は、一九八二年に江戸川乱歩賞を受賞した『焦茶色のパステル
をはじめ、日本では珍しいチーム作家として『チョコレート・ゲーム』『コン
ピュータの熱い罠
』『殺人者志願』などすぐれた作品を次々に発表してきた。
その後、他にも親子、夫婦などの合作の例がいくつか目につくようになってき
たが、作品数や力量の点で岡嶋二人氏の右に出る者はおそらくないであろう。
 こうしたコンビ作家は海外でも、どちらかというと珍しい部類に属する。そ
れでも古いところでは、いとこ同士の合作筆名であるエラリー・クイーンが名
高いし、パトリック・クェンティン(Q・パトリック)もやはり合作筆名であ
った。ただしクェンティンの場合は、合作のメンバーが複雑に入れ代わったあ
げく、後期の作品はそのうちの一人が単独で執筆していたという。また、エド
ガー・ジェプスンと合作した傑作短編「茶の葉」で知られるロバート・ユース
ティスは、その医学的知識を求められて、他にもL・T・ミードやドロシー・
L・セイヤーズら有名作家と合作している。女性コンビの合作者としては『エ
ンジェル家の殺人』などで知られるロージャー・スカーレットや、『小麦で殺
人』などのエマ・レイサンらがあげられよう。近年ではハイテク軍事スリラー
などで、簡単な取材ではまかないきれないほど確度の高い軍事情報や技術知識
が要求される場合に、小説家と技術専門家がコンビを組んで執筆する例もふえ
てきた。
 合作の利点はやはり、相互にアイデアを出しあえることと、欠点を補うこと
ができるので、バランスのとれた作品に仕上げられることであろうか。本書で
も、前述のようにサイコ・サスペンス風味や衆人環視の中の殺人、無差別連続
殺人などさまざまな要素が配合されているとともに、凶器を用いる方法などを
はじめとして、各要素のひとつひとつが実によく考えられている。岡嶋二人氏
の作品に凡作が少なく、多くの読者に受け入れられているのは、そうした利点
によるものといってもさしつかえあるまい。
 周知のことではあろうが、岡嶋二人氏は一昨年の長編『クラインの壺』を最
後にコンビを解消し、現在ではそれぞれ独自に著作活動を続けておられる。も
ちろん、だからといって、これまでに書かれた岡嶋二人作品の価値に、いささ
かなりともゆるぎがあるというわけではない。本書を含めて、岡嶋二人氏の諸
作は、長期に亙って読みつがれてほしいと思うし、たぶんこの希望はかなえら
れるであろう。そして今後は、技法面など合作活動を通じて培われたものを立
脚点に、さらに一層の飛躍が期待されると同時に、ひとりひとりが独自の世界
をどこまでくりひろげることができるかが大いに注目される。