『岡嶋二人ゲーム』 ―― 折原 一  
 
 
 岡嶋二人は『焦茶色のパステル』(講談社文庫)で一九八二年(昭和五十七
年)の江戸川乱歩賞を受賞し、推理文壇に鮮烈にデビューした合作者である。
外国においては、エラリー・クイーンやパトリック・クエンティン、ボアロー
&ナルスジャック、『笑う警官』の夫婦作家シューヴァル&ヴァールーなど、
合作者はけっこういるが、我が国ではきわめて珍しかった。
 その当時、岡嶋二人が合作者と知って驚いたことを、私は鮮明に覚えている。
ペンネームは、映画「おかしな二人」をもじったということで、なるほど、そ
う思って本のジャケット写真を見ると、二人ともどこかとぼけた味があり、人
を食ったような顔つきをしている。まさに「おかしな二人」だった。
 私は、彼らが『焦茶色のパステル』で見せた、新人離れした軽妙な筆づかい、
巧妙なプロットに半ば嫉妬を覚えながら、このコンビは長つづきしないかもし
れないと思った。
 ところが、それからの二人は、私の予想を裏切って、『あした天気にしてお
くれ
』『チョコレートゲーム』(日本推理作家協会賞受賞)(共に講談社文庫)
など、次々と力作を書いていったのである。
 
 私事で恐縮だが、私はこの「おかしな二人」を生涯の恩人として、うやまっ
ている(本人たちに言うと、有頂天になりかねないので、今まで秘密にしてい
たのだが)。
 一九八四年(昭和五十九年)の秋のことである。真面目にサラリーマンして
いた私のもとに、親しくしている大学時代の先輩から電話がかかってきた。
「おい、折原。俺たち、岡嶋二人のように乱歩賞を目指さないか?」
 作家になりたい気持ちはあったが、まあ、無理だろうとあきらめていた私に
とって、それは悪くない提案だった。でも、岡嶋二人というところに、引っ掛
かった。どうして、乱歩賞を岡嶋二人のようにやらなければならないのか。
「つまりだ、俺たち、合作して乱歩賞に応募するんだよ」
 先輩の話では、岡嶋二人にさえできたんだから、俺たちにできないはずがな
いというのだ。さらに、先輩はもう一人を加えて、三人でやろうと言った。
「三人寄れば文殊の知恵と言うだろう。な?」
 私は愚かにもその誘いに乗ってしまい、別の先輩を計画に引きずり込んで、
乱歩賞のプロットを練ることになった。締切りは翌年の一月末日で、正味五ヵ
月とたっぷりあった。そして、毎週一回、新宿で会って、プロット作りを進め
たのだが、好みがそれぞれ軽ハードボイルド、冒険、サスペンスとまちまちで、
意見がなかなかまとまらない。共通点といえば、三人ともかつて本格推理小説
のファンだということくらいだった。
「だったら、乱歩賞は密室物が多いから、最初に密室トリックを考えて、それ
からプロットを練るか」
 そういうふうに、非常にいいかげんなやり方をしたので、結局、小説はおろ
か、プロットさえできないうちに、乱歩賞の締切りはすぎ、いつの間にか「い
いかげんな三人」は空中分解してしまった。
 ところが、私一人になってみると、どうしたことか、何となく書けるような
気分になったから不思議である。むしろ他人のよけいな意見にまどわされず、
一人でのびのびやれたからかもしれない。そして、私は会社をやめ、一九八八
年、推理作家・折原一としてデビューした。
 根性のない一人の先輩が「岡嶋二人を目指そう」と言わなければ、私は作家
になることなんか考えもせず、生涯、一推理小説ファンでありつづけたであろ
う。
 ゆえに、岡嶋二人は間接的に私の恩人なのである。
 
 自分の経験から、合作がいかにたいへんなものか、身に染みてわかったのだ
が、それでは岡嶋二人はどうして、かくも次々と作品を生み出していけたのだ
ろう。『クラインの壺』(新潮社)で解散するまでの作品数は、二十七にもな
る。これは大変な数字である。
 徳山諄一(一九四三生)と井上泉(一九五〇生)の「おかしな二人」は、作
家を目指すまで、別の一人と共同でPR映画の制作会社を経営していたという。
しかし、借金が増えて、経営が苦しくなり、それを打開するために、手っとり
早い金もうけの手段は何かと考えた。そんな時に、たまたま乱歩賞受賞作の
『アルキメデスは手を汚さない』(小峰元)を読み、巻末の乱歩賞応募要項を
目にした。
 二人はこれだと思った。
「小説というものは、売れるから、一千万、二千万円単位の金は簡単に手に入
るだろうと思ったんですよ。今考えると、笑っちゃうけどね」
 職業作家になることより、賞金狙いが二人の頭にあった。「こういぅ不純な
動機で始めたので、僕たちの小説は"不純文学"なのです」
 そして、コンビを組んだ最初の年、彼らの書こうとしたのは、『富士五湖殺
人事件』という作品だった。真夏の西湖を舞台に連続殺人が起こる本格物で、
彼らは締切りの一ヵ月前に西湖に取材に出かけた。ところが、小説の舞台が真
夏なのに現地は真冬で、当然、どこもかしこも雪で埋まり、真夏のイメージが
湧かない。そこで急遽、舞台を真冬に変えて書き始めたのだが、できたのはた
った五枚だけだったという。
「もう、いいかげんなものでした」
 翌年は心を入れ替え、野球をテーマにした作品を締切り間際にやっと完成。
時間が足りなくて、四人で清書し、かろうじて乱歩賞の締切りに間に合う。第
一次予選通過止まり(いわゆる細字)だったが、自信をつけた。
 二作目。時間はたっぷりあって、自信作のつもりだったのに、蓋を開けると、
一次予選にかすりもしなかった。
「かなりいいところまで行くと思ったんだけど……。でも、いい勉強になりま
した」
 そして、三作目。『あした天気にしておくれ』で、ようやく最終候補に残り、
七年目で実質的に四作目の『焦茶色のパステル』で見事に乱歩賞を射止めるの
である。こうして、弥次喜多作家、岡嶋二人は誕生したが、以来二十七作も書
けた秘訣は何だったのか。
「まず、授賞式の時に、乱歩賞受賞の先輩作家から、『あんたら、ふんばれよ』
と脅迫めいた激励を受け、やめるわけにはいかなくなったんです」
 それに、あろうことか、授賞式の会場で、編集者の一部が「あの二人、どの
くらい持つか」と賭けをしたことも、なにくそという反発心を二人に植えつけ
た。
「苦しかったけど、僕たちには、書くことしかやることがなかったのです。締
切りが来るから、ああ、やらなくてはまずいな、と」
 そんな調子で、最後の作品『クラインの壺』まで、七年もコンビがつづいた
のである。
 数年前、私が二人に初めて会った時、『焦茶色のパステル』のジャケット写
真を見た時の印象をそのまま受けた。本人たちには失礼な言い方かもしれない
が、二人が「力まない」「のんびりした」「いい意味でのいいかげんな」態度
で仕事に臨んだことが、合作者として長つづきした秘訣だったのではないかと、
その時、感じた。
 二人はこのように日本ミステリー史上、特異な存在として活躍したが、最高
傑作『クラインの壺』を書き、これからの活躍を期待させておいた上で、突然
解散を発表した。これが、世のミステリー・ファンを大いにがっかりさせたこ
とは、我々の記憶に新しい。
「別れたくなったのは、二人でいることに飽きたから」と彼らは言う。それに
加え、二十七作も書けば、授賞式で激励してくれた諸先輩に怒られることもな
いだろうと二人が判断したこともあった。編集者もとうに賭けのことを忘れて
いるだろうし……。
「別れて気が抜けた。気楽になってよかった」
 岡嶋二人は今、正直な気持ちを吐露した。
 
 さて、前置きが長くなってしまったが、本書『ダブルダウン』は、「週刊ポ
スト」の一九八六年(昭和六十一年)の5月16日号から同年12月19・26日合併
号まで連載された作品で、一九八七年(昭和六十二年)七月に小学館から発表
された。
 ボクシングの試合の最中に、ボクサーが青酸中毒で二人とも死んでしまうと
いうショッキングな発端から、テンポの速い展開に読者は翻弄される。『タイ
トルマッチ
』(徳間文庫)につづくボクシングもので、軽妙なストーリーテリ
ングは他の岡嶋作品と同様である。
 後半、舞台は伊豆半島の下田や天城峠付近に移るが、そこで予想もしない展
開になる。疑わしき人物が次々と出てきて、魅力的な男女の探偵役の推理がこ
とごとく覆され、最後に意外な犯人と動機に到達する。
 私の個人的な趣味から言えば、けっこう高く評価したいのだが、岡嶋自身は
中の下にランクしている。しかし、岡嶋作品は駄作がなく、ほとんどが中以上
だから、作者の中の下は、一般的なレベルからすると、中の上くらいだろう。
まずは安心して読める佳品である。
 なお、岡嶋二人はコンビの解消後、「徳山諄一」→「田奈純一」、「井上泉」
→「井上夢人」として、それぞれ独り立ちした。我々は間もなく、田奈純一と、
井上夢人の『ダレカガナカニイル…』(新潮社)の二つの処女作を読めるはず
である。