序
カムパネルラは、ここで死んだ。
正確には、今立っている北上川の岸辺から五十メートルほど先にある中洲の突端で。川に落ちた同級生を助けようとして、溺れ死んだのだ。
もちろん、誰かが勝手にここがその現場だと決めただけだろう。根拠はあるのかもしれないが、壮多にはわからないし、さして興味もない。
『銀河鉄道の夜』を読んだのは小学生のときに一度きりで、物語の細かなところまでは覚えていないが、すじとしてはとても単純だったはずだ。
主人公はジョバンニという不遇な少年で、カムパネルラはその親友。ある夜、一人で星空を眺めていたジョバンニは、幻想の世界に迷い込み、銀河鉄道に乗ってカムパネルラと天の川を旅する。そして、夢から覚めたとき、カムパネルラが川で不慮の死を遂げていたことを知る――。かいつまんでいえば、ただそれだけの話だ。
思い入れなど何もなくても、こうして水際に立ち、夕闇が迫る北上川の流れを見つめていると、ふと膝下をすくわれるような感覚に襲われる。
童話の中で死んだ少年が引き寄せたなどと言うつもりはない。梅雨の終わりの大雨が一昨日まで降っていたせいで、水かさも勢いも普段より増しているからだ。
河川敷のグラウンドを横切り、腰まで伸びた雑草をかきわけて、ここまで来た。視線を右にやると、すぐそこに朝日大橋がかかっている。
知ってる? カムパネルラって、ここで死んじゃったんだよ――。
そう教えてくれたのは、七夏だ。確か、小学校に上がったばかりの頃のこと。河川敷に自転車を放り出し、二人で川を眺めていたのも、ちょうどこの辺りだったのだろう。
七夏は最近もよくここヘスケッチに来ていた。春からずっと、北上川の土手を岩手軽便鉄道が走る風景を描いていたからだ。
釜石線の前身である岩手軽便鉄道は、「銀河鉄道」のモデルといわれているらしい。当時使われていた蒸気機関車や客車の写真や資料を、七夏は熱心に集めていた。
あるとき壮多が「いっそのこと銀河鉄道の絵にすりゃいいじゃん。ファンタジーっぽいやつ」と言うと、七夏はかぶりを振った。
わたし、今回は童話の世界じゃなくて、賢治先生が見てた風景を描きたいんだよ――。
その七夏が、ここで消えた。
正確には、この岸辺で壮多と言葉をかわしたのを最後に、花巻の町から忽然と姿を消してしまったのだ。
描きかけの油絵と、一冊の本、そして、不可解な言葉を一つ残して。
カムパネルラが死なない世界って、どこにあるのかな――。
七夏は、カムパネルラが溺死した中洲の突端を見つめて、そう言った。まるで、そこへ行ってしまいたいというような口ぶりで。
七夏がいなくなってから、三週間が経とうとしている。どこで何をしているのか、誰も知らない。
いや。知っているかもしれない人間が一人だけいる。
すべてはあいつが現れてからおかしくなったのだ。
そんなあいつと、明日から旅に出る。忌々しいことこの上なくても、そうするより他にない。あいつとともに旅をまっとうすることは、七夏の望みでもあるからだ。
七夏の描きかけの油絵は、今も美術室の片隅に置いてある。
キャンバスの下半分はかなり仕上がっているように見えた。昔の北上川と、遠く上流に見える鉄橋。煙を上げてそちらへ走り去る汽車。全体的に色調が暗いのは、日没直後の風景だからだ。客車の窓明かりが並ぶさまが美しく描かれていて、印象的だった。
明らかに未完成なのは、空だ。キャンバス右上の隅だけが黒く塗られ、左端にはオレンジ色の筆の跡がある。夕焼けの名残りだろう。その間に描かれるはずの空の大部分が、まだ手つかずだった。七夏は何度か言っていた。
青がね、決まらないの。夜になりかけの空の青が――。
天を仰いだ。薄雲に覆われた空を見つめて、ふと思う。
もしかしたら七夏は、どこかへ探しにいってしまったのだろうか。
夜になりかけの空の青を。
あるいは、カムパネルラが死なない世界を。