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記憶がない。自分の名前がみつからない。眩暈と笑いが渦巻く最新短篇集。

海に落とした名前

多和田葉子/著

1,620円(税込)

本の仕様

発売日:2006/11/30

読み仮名 ウミニオトシタナマエ
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 174ページ
ISBN 978-4-10-436103-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,620円
電子書籍 価格 1,296円
電子書籍 配信開始日 2011/07/22

NYから東京に向かう飛行機が不時着。生きのびたと思ったのも束の間、「わたし」はすべての記憶を失っていた。手がかりは、ポケットの中のレシートの束だけ。スーパー、本屋、蕎麦屋、ロシア式サウナ……。熱心に過去を探る謎の兄妹が現れて、「わたし」の存在はますます遠のいていく。眩暈と笑いが渦巻く待望の最新短篇集。

著者プロフィール

多和田葉子 タワダ・ヨウコ

1960年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。1982年、ドイツ・ハンブルクへ。ハンブルク大学大学院修士課程修了。チューリッヒ大学大学院博士課程修了。1991年「かかとを失くして」で群像新人賞、1993年「犬婿入り」で芥川賞、2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花賞、2002年『球形時間』でドゥマゴ文学賞、2003年『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞、2011年『尼僧とキューピッドの弓』で紫式部文学賞、『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞と芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)を受賞。近著に『献灯使』などがある。日独二ヶ国語で作品を発表しており、1996年にドイツ語での作家活動によりシャミッソー文学賞、2016年にはドイツで最も権威のある文学賞のひとつクライスト賞を受賞。2006年よりベルリン在住。

書評

波 2006年12月号より 「無身」の作者の生産機械  多和田葉子『海に落とした名前』

管啓次郎

 多和田葉子という未知の作家の新作『海に落とした名前』を読んで、すっかり感心してしまった。どんな分野であれ、ぼくは作品には興味があっても、作者にはほとんど関心がない。野球でいえば、フィールド全体でのボールの動き、スピードのある直線や思いがけない曲がりや転がりの三次元的展開には夢中になるものの、誰が投げ、打ち、捕りあるいは捕り損ねたかまでは、「目がまわらない」ことが多いのだ。
つまり文学は誰が書いてもいいと思っている。読むときには、誰が書いたものであろうとおなじ。おもしろくてわくわくさせられるのは、ページという広大な川をすごい速さで流れてゆく言葉の紋様であり、渦や水しぶき、岩や流木や魚のようすだ。ニンゲンはどうでもいい。だからもちろん、多和田葉子が自分と同世代で早稲田の露文出身だということも、人生の半分以上ドイツに住んで現代ドイツ語文学の第一線の作家になっていることも、ピアニスト高瀬アキと組んで楽しいパフォーマンス作品を毎年発表していることも、黒い服を好み笑うと猫のような顔をすることも、ぜんぜん知らない。そして知らないことは、この本を読むことにはじゃまにならないばかりか、むしろ天佑だ。
三つの短篇と一つの中篇で一冊ができている。どんな話かと訊かれれば、どう答えようか。最初の短篇「時差」はベルリン、ニューヨーク、東京に居住する、遠隔三角関係のゲイの恋人たちの話。三番目の短篇「土木計画」は朝岸麻美が会社社長を辞めて老いた飼い猫の克枝の死をみとる話。全体の半分を占める中篇「海に落とした名前」は飛行機の不時着事故とともに記憶と名前を失った女性の話。どれもそれぞれに非常におもしろいけれど、あっけにとられたのは二番目の短篇「U.S.+S.R. 極東欧のサウナ」だった。読み始めてすぐに、パチパチと目に拍手させることになる。それは紀行文のようにはじまり、ただちに紀行文というよりはその創作ノートみたいなものだとわかる。冒頭から、展開に関して、三つの可能性が提示されるためだ。

a.船が陸地に向かって突き出した舌の上を、わたしは身体のつり合いをとりながら渡っていく。
b.船と陸地とを結ぶ幅の狭い木の板の上で、わたしは重心を失いそうになる。
c.まるで式典用の重い礼服でも着ているように、わたしは上陸用板の上で、よろめく。

ああ、そうだよ、文章って本当はこんな風に進んでいくはずだよね、とボディを持たない(no-body)作者にむかって相槌を打ちたくなる。文と文とのあいだは永遠の十字路、少なくとも三つくらいは選べる道があって当然だ。話者はさらに次の段落で「礼服ではない 〉」と続けて「わたし」が着ているのはジャケットであると訂正し、あるいは「(ここではブラウスの色には言及しない。)」と補足する。さらに「旅人は、せんたくできない」と書けば、そのひらがなは読者に「洗濯/選択」の選択を迫る。すると早くもこの作品のたどたどしい足取りの特性が明らかになってきて、小説を書くことの迷いや可能性や策略や省察が渾然一体となって、読者は発熱し、読書は加速する。
言葉には別のいくつもの言葉を呼び出すという習性があるので、いったん順調にすべりだせば、ページの空間はみるみるふくらむ。見たこともない風景が次々に展開し、ついさっきまでどこにも存在しなかった存在がどんどん投げこまれ、動き出す。淡々としたアイロニカルでクールな文体は激しい動きや熱情には無縁みたいに思えるのに、読者はいつしかけたたましく笑いながら、陽気に踊りつつ、必死にこのスピードについていこうとする。なんという目眩、発火。そしてついてゆくうちに迷いこむ地帯は、すべての人が「ここ」も「いま」も失うゾーン、あなたの私が「私」から脱落する場所だ。「無身」の世界へようこそ。それは無身の作者=機械が生産した文に感染して、読者であるぼくらのほうまで無身という圧倒的な自由を手に入れる場所だ。
こうして四篇を読み終えると、最後にふしぎなことが起こる。ボディをもたないはずの作者の姿がそれぞれの作品と重なりはじめ、像がしだいにはっきりしてくるのだ。現われるのはあの、猫の笑顔の持ち主。そして作品にしのびこんでいるこんな一文だって、彼女の決意だと見えてくる。「違った風に書くのが不可能と知った上で、常に違った風に書き、書かないということを決してしない。」見倣いたい心がまえだ。

(すが・けいじろう 翻訳者、エッセイスト)

目次

時差
U.S.+S.R. 極東欧のサウナ
土木計画
海に落とした名前

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