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そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所

松浦寿輝/著

1,870円(税込)

発売日:2004/11/26

書誌情報

読み仮名 ソコデユックリトシンデイキタイキモチヲソソルバショ
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-471701-9
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、エッセー・随筆、文学賞受賞作家
定価 1,870円

独り身の男に降りかかるのは、苦い蜜か、甘い毒か?

おまえの詩は友人の盗作だ、と指弾される詩人。コンピュータに日々生命力を奪われていく男。死ぬときの姿勢にこだわりつづける入院患者。――独りで暮す男たちに訪れる誘惑、トラブル、そして苦痛と愉悦がたっぷりと描かれる短編集。作者自らの詩作品を解体し、短編小説に作り上げた、三島賞・芥川賞受賞作家の独自の世界。

立ち読み

ゆうすず

 上野広小路の裏道のすし屋を出て、人通りの多い春日通りの舗道を湯島天神の方に向かって歩き出したときにはもうあたりに夕闇が広がり、行き交う自動車のライトも点きはじめていた。男はかなり酔っていた。一歩一歩足を踏みしめるようにして辛うじて真っ直ぐに歩を運び、ああこうしてだんだん暗い方に引き寄せられていくな、俺はひっそり沈んでいくんだなとふと思う。いきなり夏が戻ってきたような蒸し暑い一日で、陽が落ちてもまだ息苦しい水蒸気のようなものがあたりに立ちこめている。男は自分の酔いと混ざり合ったようなその濁った空気に身を浸し、それをかき分けかき分けしてゆっくり泳いでいるように感じていた。
 日本でも外国でも、ずいぶんいろんな町でこんなふうに夕闇の中を歩いてきたなと、吐息をつくようにして男は考えた。人の姿が影法師のように見えはじめる時刻の影の多い街路を気の向くまま、こちらに折れあちらに折れしながらうっそりと歩いてゆく。そんなときにはいつでも酔っていたように思い出されるのは、これは記憶の詐術で、ただそんな気がするだけのことなのだろうか。
 もう十何年前のことになるか、クアラルンプールからかなり離れたマレーシアの田舎の町のバーに昼間からしけこんでしたたか酔い、ふらつく足取りで淋しい街路に出てきたときの心細さが不意によみがえってくる。妙にだだっ広くてひとけのない道路に優しい薄闇が下りてきていて、泊まっているホテルがどちらの方角だったかもうまったくわからなくなっていた。あれはイポーだったかバトゥ・パハだったか、もうよく覚えていないが、スズ鉱山の採掘でいっときかなり繁栄して、広い道路を通しけっこう高級なホテルも建て、ところがその後産業が徐々に寂れて賑わいがだんだん失われていった、そんな町に特有のうつろな感じが町中のいたるところに漂っていたものだ。
 マレー半島の真夏はクーラーのきいた屋内から外に出ると何分もしないうちにポロシャツの胸に大きな汗の染みが広がってくるような暑さなのに、同時に何か言いようのない淋しさがそくそくと迫って、背筋にうっすら鳥肌が立つような感じだったなと男は思い出す。あんな不思議な空虚感を俺は世界中のほかのどんな町でも味わったことがない。そこはかとなく明るい気分のままゆるやかに没落してゆくような、そんな淋しさを持て余しながらやみくもに歩き回っているうちに、賑やかなデパートだのマクドナルドだのが集まっている一角にふっと出て、ようやく人心地がついたのだった。
 そんな記憶をぼんやりまさぐりながら男は雑踏の中を歩いていった。ふと気づくと、すぐ前を歩いている女の黒いハイヒールの上に覗いている足首が、夕闇の中に思いがけずなまなましい白さで浮かび上がっていた。かすかな息苦しさで咽喉もとが締めつけられるのを感じて、その白い足首に瞳を凝らしながら、男はついつい間抜けな犬のようになって女の歩の運びの後を追っていた。さっきのすし屋でたまたま隣り合わせて何となく口をきくことになった客の言葉が耳元によみがえってくる。天気だの何だのありきたりの世間話を交わした後、その客はいきなり馴れ馴れしい口調になって、
「何だかこのごろ、いい女がいなくなったねえ」と半ばひとりごとのように呟いたのだった。
「そうかね」と男が気のない調子で受けると、
「計算高いのばっかりで」と溜息混じりに言いつのって盃を空ける。
「ははあ。ひたすらあんたに尽くしてくれる心優しい大和なでしこですかね、いい女っていうのは。そんなものはもういないよね、たしかにね」
「いや、必ずしもそういうことじゃない。そうじゃなくてね、まあ多少の計算くらいあってもいいよ。計算もできないのはただの馬鹿だろ。それより、たとえばね、ひかがみのきれいな女とかさ」その客もかなり酔いが回っていて、思いつくままとりとめのないことを喋っているようだった。
「ひかがみねえ。膝の裏のくぼみのこと」
「そう」
「通人みたいなことをおっしゃる。何だかいやらしいねえ」
「いやいや、ほんと、女はひかがみよ。まるでえくぼが浮かんでいるような、テンダーで上品で淫蕩なひかがみ……。そういう女を昔、俺は知ってたんだがなあ」その客も男と同じ四十を少々過ぎたくらいという年格好で、いかにも残念そうにそんなことを言って大袈裟に溜息をついてみせるのがどこまで本気なのかよくわからない。ポーズにすぎないのかもしれないが、色事に倦み疲れた表情のよく似合う厭味のない中年男ではあった。
「で、どうしたんです、その女性とは」
 隣の客はその問いに直接には答えずに、
「ひかがみを見れば、いや見ればじゃないな、そこに唇を押し当ててみれば、俺は女の性根がわかる。邪悪な女のひかがみ、善良な女のひかがみ……」と語尾がゴニョゴニョと曖昧に消えて、その話はそれきりになった。
 視線を落としてすっすっと前に進んでゆく女の足首を追いながら、結局俺は単にからかわれていただけなんだろうと男は思った。それでもまるで暗示にかかったように、外に出たとたんにこうして通りすがりの女の脚に目を凝らし、スカートが何かの拍子でまくれて膝の裏のくぼみが見えないものかなどとぼんやり考えている俺は、何とも間抜けな奴ではないか。
 そのうちに女は飲み屋のネオンの並ぶ横丁にいきなり曲がっていってしまい、さすがにその後についていく気にはなれずに男はそのまま行き過ぎた。女のひかがみの美醜に執着して、その挙げ句に人生を棒に振るというような贅沢はもう俺には赦されないなと思うと、淋しさがいよいよつのってくるようだった。
 あれはどういうはずみだったか、昔、何とかいうアメリカの詩人の詩集を本屋の棚から手にとってぱらぱらと眺めていたときにたまたま行き当たり、目を開かれるような気がした言葉がある。ある詩のいちばん最後の三行だった。

  だがわたしにはまだ、果たすべき約束があり、
  眠る前に、何マイルもの道のりがある。
  眠る前に、何マイルもの道のりがある。

 あれは仕事でも家庭でもトラブルが続いて男がすっかり疲れきっていた時期のことだった。そんなふうに疲労が溜まっていたからこそ、それまでの人生でまったく無縁だった詩などというものをちょいと覗いてみようという気まぐれが起きたのかもしれない。
 白い足首を見せていた女が消えて不意にぽかっとうつろになった眼前の空間に目を据えているうちに、今またその詩行が思い出された。俺のための寝床、何もかも忘れてぐっすり眠りこけることのできる寝床はいったいどこにあるのか。まだ眠れないな、と酔いに霞んだ頭で男は考えた。まだまだ眠れない。「果たすべき約束」があるからだ。だれと、何を、約束したのか、それはまったくわからない。わからないけれど、約束はたしかにあるのだ。斜め左の方角へゆるやかに上がってゆく湯島の坂が近づいていて、その光景が何だか胸に重くもたれかかってくるようだった。
 つい先ほどまで人々がひしめき合う雑踏をかき分けながら歩いていたはずなのに、いつの間にそんなことになったのか、男のまわりにはだれもいなくなっていて、車の行き交いも絶え、ふとこの世の時間の外にはみ出してしまったような静寂が広がった。と、薄い刃物の横腹が首筋を撫でて過ぎてゆくようなひんやりした感触があり、男はぞくりとして首をすくめた。腋の下から背中にかけて鳥肌が立つ。また来たなと思い、上着の襟に手をやってぎゅっと引っ張ってみた。ときどきそんなひんやりとしたものが訪れて、男を眠りに誘うのだった。あちら側の世界からときどきふと漂ってくる昏いものたちの、てのひらの感触なのだろうと男は思っていた。待ってくれ、もう少し待ってくれよなと男はいつものように心の中で呟いた。
 酔いが少しさめている。夜の闇がようやく空気を冷やしはじめていて、顔に当たるそよ風に秋の気配が感じられるのは気のせいばかりでもないようだ。
 ゆうすず。そんなみやびな平仮名の言葉を男は思い出した。夕涼みのことか。夕べの涼しさのことか。いや、それはむしろ、夜になっても滞りつづける暑気の間を縫うようにひとすじ流れてきて、人の首筋をさわさわと撫でては消えてゆく、こんなふうなひんやりしたものたちのことなのではないだろうか。「眠る前に、何マイルもの道のりがある」とそっと呟いてみる。と、聞こえるか聞こえないかというほどの残響がルフランになって心の中に谺した。男は立ち止まり、自分の首筋をそっと撫でてみた。それから気を取り直してまた歩き出し、どこかで飲み直そうと思いながら本郷三丁目に向かう坂を登っていった。

*本文中の引用はロバート・フロストの詩「雪の夜、森のそばに足をとめて」より

著者プロフィール

松浦寿輝

マツウラ・ヒサキ

1954年東京生まれ。詩人、小説家、東京大学名誉教授。1988年、詩集『冬の本』で高見順賞受賞。1995年、評論『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、1996年『折口信夫論』で三島由紀夫賞、2000年『知の庭園――19世紀パリの空間装置』で芸術選奨文部大臣賞受賞。同年「花腐し」で芥川賞、2004年『半島』で読売文学賞、2005年『あやめ 鰈 ひかがみ』で木山捷平文学賞、2009年、詩集『吃水都市』で萩原朔太郎賞、2014年、詩集『afterward』で鮎川信夫賞、2015年、評論『明治の表象空間』で毎日芸術賞特別賞、2017年『名誉と恍惚』で谷崎潤一郎賞、2019年『人外』で野間文芸賞を受賞。他の小説作品として、『もののたはむれ』『幽』『巴』『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』『川の光』『月岡草飛の謎』、評論・随筆作品として、『口唇論 記号と官能のトポス』『平面論 一八八〇年代西欧』『官能の哲学』『散歩のあいまにこんなことを考えていた』『黄昏客思』など。2019年、日本芸術院賞を受賞。日本芸術院会員。

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