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本を読むひと

アリス・フェルネ/著 、デュランテクスト冽子/訳

2,090円(税込)

発売日:2016/12/22

ジプシーの大家族とある図書館員の物語。
ゴンクール賞候補作のロングセラー!

パリ郊外の荒れ地に暮らすジプシーの大家族。家長のアンジェリーヌばあさん、息子五人、嫁四人、孫八人のこの一家を、ある図書館員が訪ねてくる。本を読む歓びを伝えたい一心で毎週通ってくる彼女は、まず子どもたちを、やがてその父母を、最後には家長をも変えてゆく。フェミナ賞最終候補となったフランスのロングセラー!

書誌情報

読み仮名 ホンヲヨムヒト
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 238ページ
ISBN 978-4-10-590133-2
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品
定価 2,090円

書評

ジプシーの大家族と一人の「よそ者」

水村美苗

 追いに追われて、ついにある郊外の空き地に陣取った、アンジェリーヌばあさんを中心としたジプシーの大家族。五人の息子と四人の嫁と八人の孫とがいる。キャンピングカーは風雨から彼らを守ってくれるが、水道も電気もない。ばあさんは臭い匂いを放つゴミだらけの焚火の前に日がな一日座り、息子らはたまに盗みを働くほかには暇を持て余し、嫁らは湯沸かし、洗濯、料理と忙しく働いた上に、運び込まれた病院で粗末に扱われながら出産したり、自分のベッドで血まみれになりながら流産したり、愛されたり殴られたりしている。子供らは昼は玩具ひとつないまま水溜まりだらけの空き地で遊び回り、夜はぎゅうぎゅう詰めになって眠りを貪る。そんな中に「よそ者」である図書館員のフランス女性エステールが、持ち前の慎み深さと勇気で入りこみ、毎週、子供らに本を読んでやるようになる。最初はエステールに猜疑心を抱いていた大人もやがて彼女に心を開くようになり……。
 翻訳本を読む大きな楽しみは、寝そべったまま、知らない文化を生きることができることにある。フランス語の翻訳を読めば、フランスの理解が少しは深まる。だが、アリス・フェルネの『本を読むひと』を読むと、フランスの理解が深まるだけでない。フランスに何百年も住み着きながらも、フランス人には非ざるジプシーという流浪民族についての理解も深まり、同時に、そのジプシーにフランスがどう関わるかを通じて、フランスについての理解もより深まる。
 それにしても、フランスの中産階級の一女性作家がよくもここまでジプシーたちの生活を、その細部に至るまで生き生きと描けたものだと、感嘆する。そこに描かれた日常がどれぐらい正確なものかは私には分かりえない。だが、読んでいて、まさにこんな風に生きているのだろうと納得できる。それは、救いのない貧困が少しも美化されていないこと、それと同時に、その貧困を生きる人たちが、一人一人ちがう顔をもった人間として描かれていることに帰するであろう。
 野営生活に伴うのは、汗や煙や糞尿の匂い、凍てつく寒さ、早すぎる加齢に加え、習い性となった怠惰、思考の停止、無意味な暴力等である。羨むべきことは何もない。それでいて、そんな生活を送る彼らのうち、ある男は純粋に恋をし、ある男は女の尻を追いかけ、ある女は頭が悪く、ある女は優しく、そして老女はそれをすべて見ている。彼らは丁寧に描き分けられることによって、あたかも知人ででもあるかのように読者の前に立ち現れる。私たちと同じ人間が、歴史の流れによって、このような生活をしていることの不公平さ、それと同時に、このような生活をしながらも、私たちと同様に産声を上げて生まれ、熱い肉体で若さを謳歌し、そして枯れて死んでいくという、人間の条件の絶対的な公平さも立ち現れる。
 勿論『本を読むひと』のような主題を扱った小説は批判に晒されうる。「よそ者」のエステールがジプシーの子供らに本を読み聞かせ、最終的には小学校に通わせることにどんな意味があるのか。それは、たんにフランスにとって異質な存在を消滅させ、フランスと同化させ、近代という枠組みの中に回収してしまうだけではないかと。『本を読むひと』の素晴らしさは、本を手に取ってみれば、このような批判を撥ねつける信念が、静かに、力強く脈づいていることにある。
 人には本が必要だという信念である。
 著者のアリス・フェルネは、そのような信念が傍から見てナイーヴ、あるいは、僭越なものに映りうるのを承知している。それゆえに、フェルネは、エステールをふつうの市民生活を送っている人間でありながらも、特異な人物として設定している。エステールは「同情心からジプシーに近づこうとしたのではなかった」。彼女は「人生には本が必要だし、生きているだけでは十分じゃないと思うから」というその信念に突き動かされている。狂信者だともいえよう。だが宣教師は考えを植えつけようとするが、彼女は読書という行為を通じて、人が考えることができるようにしたいのである。「人間は考える葦である」。アンジェリーヌばあさんは彼女の特異さを敏感に嗅ぎつけ、死ぬ間際には自分の娘として扱う。「人に尽すってことも病気の一種だ」という忠告も残す。
 翻訳には躍動感があり、地の文も会話もぴちぴちと跳ねるようである。この小説家が初めて日本で紹介されるのに、ふさわしい小説であり、ふさわしい翻訳である。

(みずむら・みなえ 作家)
波 2017年1月号より

短評

▼Mizumura Minae 水村美苗

郊外の空き地に陣取ったジプシーたち。水道も電気もない彼らの毎日は貧しいだけでなく、汚らしい。水溜まりだらけの地面には、ガラスのかけら、タイヤの断片、鉄くずなどが散らばっている。汗と血と糞尿の匂いまでしてくる。それでいて全編を貫くのは、息を香む詩情であり、さらには心が洗われる清々しさである。泥まみれの人間も等しく人間であるという厳然たる事実と、どんな人間にも本が必要だという熱い信念とが、同じ尊さをもつがゆえか。本を閉じた時には、精神が高められた感覚が残る。どこまでも美しい本である。


▼Etudes Tsiganes ジプシー研究誌

こころをひきつけられる思慮深い本だ。現実をよりよく語るためには、ロマネスク(小説性)が必要であることを訴えている。イメージや音を表す言葉のなかでこそ、我々の恐れや、こころを満たしてくれるものを伝えられるからだ。


▼Le Soir ル・ソワール紙

みごとな文体は歌うような調子で書かれ、声に出して読みたくなる。こころを嬉々とさせてくれ、読み終わると、感動に満たされる。


▼Telerama テレラマ誌

一気に練りあげられたような文体に促されて読み進んだ読者は、最後のページにいたって、長い旅からもどったような印象を持つだろう。

訳者あとがき

 アリス・フェルネ著『本を読むひと』(Alice Ferney, Grace et denuement, Actes Sud, 1997)で描かれているのは、パリ郊外の荒れ地に生きるジプシーの大家族と、図書館員エステールとの出会いが引き起こす物語である。
 四百年もまえからフランスに暮らすジプシーのある一家が、無断で住みついていた元ホテルから追い出され、パリ郊外と思しき空き地を見つけ、おんぼろトラックとキャンピングカーを連ねて乗りつける。そこは、ガラスのかけらや泥だらけの地面に枯れ木が一本立っているだけの、とある老女の私有地だった。
 家長であるアンジェリーヌばあさんには、五人の息子と四人の嫁、八人の孫がある。
 アンジェリーヌは「ばあさん」と呼ばれながらも実はまだ五十七歳なのだが、一日中、ただ焚き火の番をしながら、息子や嫁、孫たちに囲まれた暮らしに充足している。息子たちがまともな仕事についていないことも、孫たちが学校に行っていないことも、なんら気に病まない。自分の生んだ子どもたちが生きていること、嫁たちが息子を愛していることだけが重要だったのだ。
 一般社会からは除け者にされ、身分証明書もなければ社会保障もない。たいていの人間が持っている生活必需品すらなく、着の身着のまま暮らしている。物欲も、社会的な野心もない。あるのはジプシーとしての自尊心だけである。
 長男のアンジェロは五人兄弟唯一の独り者で、母親と同じキャンピングカーで暮らしている。次男のリュリュは、マイミスと呼ぶ恋女房ミジアにくびったけで、三人の子供があってもまだ欲情を止められない。彼だけは、今の時代を生きのびるには教育が不可欠であるとわかっている。三男のシモンは狂気にとらわれ、女房ヘレナに暴力をふるい、あげくは子供もろとも逃げられる。四男アントニオは優しいが浮気者で、歌の上手な女房ナディアを泣かせている。からだの一番大きな五男ジョゼフはムスチック(蚊)と呼ばれ、あまり頭は良くないが働き者の女房ミレナがいる。
 ある日、一家を訪ねて、ジプシーたちがふだん「よそ者」「外人」と呼ぶ、フランス人の女性、図書館員のエステールがやってくる。アンジェリーヌばあさんは最初、鼻も引っかけない。だがエステールは、学校教育から疎外され、本どころか文字さえ知らない子供たちに、読書のよろこびと、魔法のようなその魅力を伝えたい一心で通ってくる。
 雨の日も、風の日も、週に一度たずねてくるエステールを、子供たちはやがて心待ちにするようになる。すると、つぎにその母親たちが、やがてアンジェリーヌばあさんが、ついには男たちも、次第にこころを開いてゆく。長男アンジェロは、いつのまにかエステールに夢中になってしまい、かなわぬ恋に煩悶する。
 その間にも、ジプシー一家にはさまざまな出来事が起こっている。子供が生まれ、子供が死に、夫が浮気をし、夫婦喧嘩や暴力があり、強盗や盗み、狂気がある。エステールは、学齢に達しているアニタをなんとか学校に入れようと奔走を始める。
「本を読むひと」エステールの登場によってジプシー一家が変わってゆくさまは、読者の胸を打たずにはおかないだろう。しかし、エステールがジプシー一家にとっての恩寵であると同時に、エステール自身も彼らを必要としており、彼らから大きな恩恵を受けるのだ。原題を直訳すると『恩寵と貧困』となるが、この「恩寵」が、けっして一方通行ではないことが、本書を奥深いものにしていると思う。
 
 ここで、フランスの「ジプシー」(フランス語ではジタン、gitans)について短く触れておきたい。彼らはいったいどこからやってきたのだろう。
 十世紀頃、インドがイスラム教徒に侵略されたとき、最下層とされていた階層の人たちが北部インドを逃れ、移住を始めたのがその始まりと言われる。これはジプシーの標準語となっているロマニ語の起源をたどっての推測である。数百年かけて、移住は東から西へ進み、エジプト、現在のトルコ、スペイン、ドイツ、北欧に至るまで広がった。十五世紀になると彼らは、ボヘミア王国の移動許可証を持ってアルザス地方に移住し、「インド人」、または「マヌーシュ(人間)」と自称していた。その頃から「ジプシー」という他称が使われるようになったが、これは英語の「エジプト人」(Egyptian)に由来する。現在日本では「ロマ」と言い換えられることが多いというが、移住した国によって彼ら自身の呼び名も異なっている。反対に彼らがジプシーでないものを呼ぶときは、共通の言葉gadjoを使う。「外人」「よそ者」という意味である。
 十五世紀、王侯貴族は自分の軍隊を所有しており、武器や馬の世話をするのにこの放浪民たちを使ったが、十七世紀にルイ十四世により私有軍が廃止されると、彼らは職を失って、行商を始めることになる。十九世紀になると産業革命の影響で地方への移住が強いられ、同時に東欧での農奴解放が元農奴の西方への移住に拍車をかける。彼らはサーカス、旅興行などで生活を営んだ。幌馬車が出現し、彼ら放浪民の移住、住まいのシンボルとなる。
 どこの国でも、いつの時代でも、ジプシーは迫害されてきた。一八九五年のフランスの国勢調査では四十万人のジプシーが登録され、一九一二年には、通常は犯罪者用の「人体測定帳」というものが彼らに交付された。ナチス占領下では、ユダヤ人同様に迫害を受けることになる。作中、エステールがユダヤ人であることを知ったアンジェリーヌばあさんが、生き延びて、いま二人でこの焚き火を囲んでいることの不思議について語る場面があるのは、そうした歴史ゆえである。
 現在では、フランス国内の自由移動権を持っているが、同じ場所に定住する人々が多くなり、法律もそれを優遇するようになっている。子供たちが教育を受ける権利ももちろんある。だが定住を望むジプシーと放浪を好むジプシーとでは一般社会における生活態度が違うため、法律の適用を難しくしている。
 
 アリス・フェルネは一九六一年、パリで生まれた。フランス啓蒙思想家ヴォルテールと同じ誕生日で、彼女のペンネームである「フェルネ」はヴォルテールの住まいのあったスイス国境に近いフランスの村の名前に由来する。
 裕福な家庭に育ち、スポーツ、音楽、キリスト教精神に基づいた情操教育を受け、豊かな子供時代を過ごした。パリ国立高等音楽院のピアノ科を首席で出た母親は、観劇、美術展に足しげく通う好奇心に富む女性。父親はトレーダーオフィスを経営しながら長年テニス選手として活躍し、日曜ごとに家族とダブルスでプレイするという子煩悩なスポーツマンである。
 フェルネは名門グランゼコールのひとつであるエセック経済商科大学院大学(ESSEC)を卒業後、オルレアン大学で経済学の教鞭をとるかたわら文筆活動を開始(初めて本を書こうとしたのは七歳のときだったそうだが)。現在は三人の子供を育てながら執筆をつづけ、世界的に名高いパリのH‌E‌C経営大学院で、おもに数学とビジネスを学ぶ学生のための「文章講座」を受け持っている。また日刊紙「フィガロ」の文芸欄の書評も担当している。
 一九九七年に出版された『本を読むひと』は、フェミナ賞の最終候補となり、惜しくも受賞を逃したものの、「みんなのための文化と図書館賞」を受賞し、刊行後二十年近くたった現在も増刷を重ね、長く読み継がれている。
 九五年、『未亡人の優雅さ』を出版したフェルネは、現在のアクトシュッド社文芸ディレクターが始めたコレクション、「ジェネレーション」のために、現代をテーマにした作品を書くよう示唆され、それが本書執筆の発端だったという。
 ホームレスの人たちに本を届けることを目的とする「路傍の図書室」という活動があることを知っていたフェルネは、文化に触れる機会のない子供たちが社会から疎外されている現実について書きたいと思うようになった。そしてあらゆる資料を調べ、人々の体験に耳を傾けた。とくに社会学者ピエール・ブルデューと彼の率いる研究者たちによるインタビュー集『世界の悲惨』(La misere du monde)から学ぶことが多かったという。本書の教材版に付された解説で、フェルネは次のように語っている。
「私にとって書くことというのは、好奇心をそそるものを探り、未知なことを知るための行為なのです。……私は本を書く前に、知りたい対象となるもののなかに二、三年没入します。この本を書く際にも、ジプシーの文学を読み、音楽を聴き、ロマニ語を学び、まるで彼らの世界に住んでいるようでした」
 フェルネの作品には、『妖精の腹』、前出の『未亡人の優雅さ』、『恋人たちの会話』、『戦渦』などがあり、それぞれの作品のテーマは、恋愛関係、母性、知識の伝達、孤独な執筆、というふうに彼女自身の人生のテーマと一致しているのがわかる。『恋人たちの会話』は十五か国語に訳され、『未亡人の優雅さ』はトラン・アン・ユン監督、オドレイ・トトゥらの主演で、今年映画化されている。

 最後に私にとって初めてのこの文学作品の翻訳に当たって、寛大な方々のどれだけ大きな助けを受けたことか。日本の大学時代のクラスメートの鈴木啓子さん、パリでのクラスメートの水村美苗さん、新潮社出版部の忍耐強い須貝利恵子さん、そしてなんといっても勇気のあるアリス・フェルネ。なんの躊躇もせず私に翻訳を許可してくれたことに、頭を垂れて感謝したい。 
 
二〇一六年十一月二十五日

デュランテクスト冽子

アリス・フェルネ『本を読むひと』著者メッセージ

まとめテーマでくくる 本選びのヒント

著者プロフィール

1961年、パリ生まれ。エセック経済商科大学院大学(ESSEC)卒業。オルレアン大学で経済学の教鞭をとるかたわら文筆活動を開始。1997年刊行の『本を読むひと』はフェミナ賞最終候補作となり、「みんなのための文化と図書館賞」を受賞。刊行後20年近くたった現在も長く読み継がれている。その他の作品に、ゴンクール賞候補となった『戦渦』、15カ国語に翻訳されたフェミナ賞候補作『恋人たちの会話』がある。『未亡人の優雅さ』は2016年、トラン・アン・ユン監督が映画化。

デュランテクスト冽子

デュランテクスト・レツコ

1948年、東京生まれ。青山学院大学文学部仏文学科卒業後、パリ第四大学でフランス文明講座受講。帰国後、再渡仏し、フリーランス通訳、アパレル企業のパリ駐在員などを務める。在仏40年。

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