やっぱり、歌詩じゃないか!

 ソロとして作品を発表するようになって25年が経ち、これまで書いてきた歌詩を集めて1冊の本を作ることにした。でも、実はこうした企画は初めてではない。
 サザンの『綺麗』までの歌詩を集めた『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫)が出たのが1984年の5月だった。そして続編が90年の7月に出ている。本のタイトルは、ふと浮かんだ言葉を勢いでつけたようなものだったが、“ただの歌詩”という表現は、当時も様々な意味合いに受け止められたようだ。
 僕の本心としては、
「恥ずかしいから、そんなとこ見ないでよ」
 というようなニュアンスでもあった。(ホントかよ!? オイ!!)
 あの本の中で、「歌詩というのは料理でいうところのお皿のようなもの」と例えているが、ほぼ曲が完成しかかったところで、サウンド全体の“受け皿”として、そこに彩りを加えるために初めて考えるのが、当時の僕にとっての歌詩だった。(若さっていいねぇ)
 当時、歌謡曲やフォークと呼ばれる音楽をやっていた人達は、最初から憂いや含みのある日本語の世界観を重視していたが、自分の考え方はもっとアッケラカンとしているというか、まるでそういうものとは違っていた。それなのに、そこに評価のポイントを置かれることへの抵抗はやや大きかった。

 こうした歌詩に対するスタンスは、僕のキャリアにも関係したことだ。
 アマチュア時代、曲を作り始めた頃は、ともかく好きな外国のバンドの真似をして、そのサウンドを鳴らしたいという想いが強かった。歌詩といっても実に曖昧だった。
 ところがプロとなりレコードを出すとなると、当然歌詩カードを付けないといけない。リスナーと呼ばれる人達に対して言葉を曖昧なままにしておくことは出来なくなる。そこで色々、付け焼き刃的に歌詩(のようなもの)を考えていくことになった。
 当時はリハーサル・スタジオで口から出まかせのように浮かんだものも多かった。「いとしのエリー」の“♪笑ってもっとベイベェ~”の部分も確か、そうだ。あの歌の中の言葉だと“むじゃきにon my mind”とか、ワンコーラス目の出だしぐらいは家で考えたかもしれないが、8対2ぐらいで、リハの現場で浮かんだものが多かった。(結構才能あるじゃん)
 そういう作り方が当たり前だったというのも今思えば凄いというか、怖ろしいことなのだが、
「桑田は今までの日本語を壊してまで歌詩をロックのリズムに乗せた」
 などと、当時の評論家さん達に言ってもらったりもした。これにはちょっとビックリもしたが。
 もちろん、面白く書けるものばかりではない。まるでダメなものも多かった。
 よくやっていたのが、メロディに対して文字数を埋めるため、比較的安易に英単語を付け加えることだった。曰く“今宵はFEEL SO FINE”みたいなものがいっぱいあったわけだ。それがやがて、全編英語になったのがKUWATA BANDだ。あの頃は、
「日本人も中国人も韓国人がやるロックも、いずれ近いうちに全て英語になるだろう」
 と本気で思っていた。バブル前夜という時節柄も手伝って、
「俺達もいずれは海を渡っていく」
 という発言もした。(深く考えもせずにな)
 でもやっていくうち、様々な壁にもぶつかりながら、
「やっぱり自分の最大の武器は日本語以外無いな」
 と思うようになる。
 大きな転機となったのがソロ活動だ。


続きは本誌にて。