今号の「世界のαに関するカルチャー時評」のなかで、筆者の
円城塔さんは以下のように記しています。〈世の中色々、無邪気にイコールで結んではいけないことがあり、イコールをどんどん繋げていけばたいていのことは言えてしまう〉。
NHKの番組「これでわかった! 世界のいま」は、「黒人=貧乏=怒る=暴れる」という図式でアメリカ全土に広がるブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を解説しました。「黒人は貧乏だから怒っていて、怒っているから暴れている」と概説すれば、それは確かにわかりやすい。でも、そうしたざっくり理解が無視しているのは、アメリカの黒人400年の歴史(そのうち245年は「奴隷」)、その歴史が社会の中に経済的格差や偏見を固定化してきたということです。
社会の構造そのものが、黒人というマイノリティに生まれ落ちた瞬間から不利を強いる。そして、その不平等をマジョリティたる非黒人は意識できない。そうした「制度的人種差別(システミック・レイシズム)」の実像を「トレンドを、読む読む。」欄で伝えてくださったのは、ニューヨーク在住の堂本かおるさん。
また「海外エンタメ考 意識高いとかじゃなくて」欄の今祥枝さんは、この問題の表出を映画・ドラマを中心としたエンタメ作品の中に探っています。本記事では、二十年ほど前に映画「キューティ・ブロンド」(“ブロンド美人は頭が悪い”という偏見を逆手にとった作品です)で主演したリース・ウィザースプーンが、いま「リトル・ファイアー 〜彼女たちの秘密」(Amazon Prime Video)で、貧しい黒人への白人エスタブリッシュメントの「無意識の『上から目線』」を演じていることも指摘されます。確かにここには、アメリカ社会の現在が生々しい姿を晒していると言えそうです。
社会のマジョリティによる意識的・無意識的な差別は、ある人の「属性」を社会の側から定義して行く行為の中に潜みます。ここにおいて、アメリカのBLM運動は日本にも(日本で暮らす非黒人にも)接続されてくるのだと思います。
もちろん、私たちは警官に射殺される社会に暮らしてはいません。しかし、
ドリアン助川さんと
ドミニク・チェンさんは対談「まだ見ぬ地平と大いなる共感」で、次のように語っています。
〈ドミニク (「外人」は)「外の人」という排他的な感覚が際立つ言葉で、聞く度に傷つくのですが、日本にはそうした人種差別に対する想像力がなかなか広く共有されていないと思います。〉
〈助川 なぜこんな話をしているかといえば、新型コロナによって社会が不安定になると、この属性による差別が増大するからなんですね。いま政府が国民に10万円払うと言っていますが、ネット上では「外人にはお金を与えてほしくない」なんてことを平気で言う人がいる。〉
ドリアン助川さんはこの後、〈「アイデンティティ」というのもとても乱暴な言葉で、こんな言葉は必要ないんじゃないかとすら僕は思うんです。けれどそれを好む人も中にはいて。〉と言葉を継がれるわけですが、それを以下の、前出の堂本かおるさんの記事の一節と読み合わせてみたいのです。
〈(大坂なおみ選手や八村塁選手のような)「日本人」もしくは「スポーツ選手」がアメリカでの反黒人差別運動にかかわるのはふさわしくないと言う批判も多い。そうした非難を投げ掛ける人々は、大坂選手や八村選手を「日本人のスポーツ選手」としてのみ捉えている。だが、人の文化背景やエスニック・アイデンティティは複雑にして複数あるものであり、他者が決められるものでは決してない。〉
日本人としての強いアイデンティティを示す大坂選手が、同時に自分自身を「black girl」とも呼んでいること。「アイデンティティなんて言葉は必要ない」というのは、人の「属性」定義が当事者を無視して行われる様を指したドリアン助川さん一流のレトリックであって、自分の「属性」は常に自分自身で決めるものだという認識は、人種差別のみならずあらゆる「マジョリティ/マイノリティ」「優位性/劣位性」の関係から生じる圧力に向き合う私たちにとって、とても大切なことであるはずです。
今号を作りながらこうした事ごとを意識したのは、
加藤千恵さんの連載小説「手の中の未来」の原稿を読んだからでもありました。マッチングアプリへの登録作業で自分の属性定義に困ってしまう主人公、その姿はまさに、社会のシステミックな圧が日常生活へと侵入してくる瞬間そのもののように感じます。
そして「誌面のことば」は、長井短さんの連載エッセイ「友達なんて100人もいらない」より。ある生徒を「高く評価する」ことが、先生たちが自らを「わかってる教師」側に立たせることに繋がってしまう。そうなったらその生徒は、好むと好まざるとにかかわらず、「わかってる教師に評価される人」というポジションから抜けられない。考えてみれば、教室の中にもいろいろな「属性」の強要がありました。
いや、人種差別と学校生活の話じゃレベルが違うだろというご指摘もあるとは思いますが(そして実際、その違いと線引きを忘れれば、冒頭の円城さんの言う“無邪気なイコール結び”に陥ってしまうはずですが)、でも「この目の前の問題は、どこかで大きな問題に紐づいているのかもしれない」という感覚自体は、考える出発点として肯定したいと思います。