【冒頭部分掲載】

◆新連作小説◆
ネバーランド

藤野千夜



〈これから行っていい?〉
 隆文から携帯にメールをもらい、ちょうど仕事中だったけれど〈いいよ〉と返事をしたら、一体どこにいたのか十分ほどで訪ねて来た。夜の八時くらいだった。
 急ぎの仕事がまだ片づかないところだったから、とりあえず上がってもらい、
「ねえ、あとでラーメンかファミレスでも行こうよ」
 明るく提案すると、出かけるよりも家で何かを食べるほうがいいと言う。
「じゃあ、ピザでも取る?」
 と訊ねると今度は返事がない。デリバリーじゃなくて家で何かを食べるのはいいけれど、では作るのは誰だろう。
 私だ。
 三つ年下の隆文は、急にそういうことを言う。簡単なものでいいから代わりに作ってくれてもいいのに、そういうことはしない。してくれない。
 もっとも、一度してくれたらそのあとずっと自慢だったから、むしろしてくれないほうがいいやと甘やかしたのもいけなかった。甘やかされて妙にのびのびとしている男は、買い置きのお菓子、アーモンドチョコだとかレーズンウイッチだとか黒ゴマ入りのクッキーだとかをばりばり齧りながら、どうやら空腹をアピールしている。
「ねえ、ご飯の前にやめなよ」
 そう注意をすると、えへっ、とまるっきり子供みたいな笑顔を見せて、でもお菓子を食べるのをやめなかった。相変わらずばりばりぼりぼり音を立てながら、ふらっと2DKの部屋の中を歩き回っている。そしてときどきそばに寄って来ては、またふとんが敷きっぱなし、だとか、流しに洗い物が溜まってる、だとか、あのペットボト ルってやっぱり集めてる? だとか楽しそうに言うのだった。
 口ぶりから冗談だとわかっていても、なにしろ仕事中だ。いやん、見ないで、と甘く応対できる心の余裕がない。
「それだけ忙しいの。わかったら何か買って来てよ」
 つい声を荒らげてしまい、驚いた恋人の顔を見て悲しい気持ちになった。童顔で二つ三つは若く見えるとはいえ、もう二十七歳になる男は、丸い目を大きく見開いて、 うすい唇を半開きにしている。
 子供なのか。
 この人は。
 私の子供なのか。
 生んだ覚えはまったくないけれども。
「……じゃあ、松屋かオリジンに行って来るよ。どっちがいい?」
 弱々しく訊ねる隆文に、
「いいから待ってて、あと少しだから」
 私は懇願するように言い、でももう一度パソコンの画面に集中する気力がわかな かった。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。