【冒頭部分掲載】

ニナンサン

中上 紀


 急な坂だった。中腹にある駐車場へと続く道は工事中で赤土が見えている。擦れるような音を立てながらタクシーは山を登っていった。緑や赤や青に塗られた屋根の色と幾つもの家屋の門とが視界を潜り抜けていく。その一つに、ハングルではなく漢字で書かれた札が掲げてあったが、車の速度が速すぎて読み取れなかった。駐車場に着き、私を降すと運転手は自分も車から出て煙草に火をつけた。見知らぬ銘柄のピンクの箱がポケットの隙間からはみ出している。見晴らし台のようになった駐車場の縁に立ち、白い街並みを見下ろしている男の背中に私は声を出さずに語りかけた。無事にここまで連れてきてくれてありがとう。そして私は前へと向き直った。すぐ近くに、石段がある。前方で白い岩肌をところどころに見せながら聳えている山へと続く石段だ。
 ソウル市の中心からほど近い場所にあるこの山はそれほど高いわけでも、美しいわけでもなかった。しかし、いままで通ってきたすべての道のりが、ここに続いていた気がしてならない。長い間、来たくて堪らなかったのだと思った。身体の底から湧き出したものが勢いよく吹きこぼれていくような感覚に、私は戸惑っていた。なぜ、こんな思いがするのか。山の上にあるという、祈りの場所に行けばその答えが見えてくるのか。朝のものともつかず昼のものというわけでもない中途半端な、しかし滑らかな光が私を包んでいた。その光に見守られるようにして、腹に手をやった。曇った痛みのようなものが胃から腸のほうへ広がっていっている。朝から、何となく腹の調子が妙だった。いままでどんな国を旅し何を飲み食いしようと平気だった腹が、昨夜、晴美と飲んだ安酒のせいで悲鳴をあげはじめているのかもしれない。同じ腹でも、胃や腸ではなく、はるか下にある子宮から悲鳴が聞こえはしないかと耳を澄ませていた一年前のことを急に思い出した。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。