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人間の屑(抄)
町田 康

 風呂から上がってビールを飲み、「巨大烏賊の逆襲」
というテレビ映画を見ていたところ、だしぬけに仲居が
部屋に入ってきて、烏賊の酢味噌和え、烏賊のフライ、
烏賊ソーメン、なんて烏賊ばかり、不足たらしい顔で座
卓の上に並べるので、その手元を黙って眺めていると、
「今日はお客はんたて込んで往生したわ。ちゃっちゃと
片づけとくなはれや」と、紺色の民芸調暖簾をかき分け
て婆ぁが顔を出した。「ああ、吉田さん、チェリーの間
でお客さん呼んではりまっせ」と仲居に声をかけ、「え
え、ええ」と曖昧な返事をして出てった仲居を見送ると
婆ぁは向かい側にだらしなく座り、「ああしんど」と、
ばたばた団扇を使い、それから自分の方をじろりと見て
いった。「なんや、早よ食べなはらんかいな」食べなは
らんかいな、と言われても、自分は朝からなにもしてお
らず、元来、食欲のないところへさして、板場の都合な
のか、このところの、毎日毎日の烏賊責めには、さすが
の自分もへこたれる。その上ですよ、おい婆ぁ。僕はい
ま、「巨大烏賊の逆襲」という醜怪な烏賊の活躍する映
画を見ているのだよ。湯上がりに。ビールを飲んで。丹
前姿で。それでもやはり烏賊ですか。そうですか。やる
なあ。婆ぁ。やるよ。って、自分はのろのろ箸を使った
が、やはり食が進まぬのは、「巨大烏賊の逆襲」のせい
ばかりではなく、例えばこの部屋のたたずまい、場の感
じ、がやりきれぬというのもあって、つまり、この欅の
座卓、茶箪笥、柱時計、花柄のポット、急須、扇風機、
鍋敷き、民芸調の暖簾、銀行名の大書してある暦、健康
雑誌、畳の上に直かにおいてある金庫、といった、六畳
の座敷いっぱいに充満する婆ぁ感に自分は、なにか追い
立てられるような気分になり、傍目には、朝風呂丹前、
昼寝、宵寝の合間に風呂に入って酒を飲んで烏賊を食う、
って、のんびりしたもんだが、心の内では、いつまでこ
んなところに居られねぇ、早く何とかしなくちゃあ、と、
焦りに焦っている、という一事が根本にあるからでもあ
り、だから、ふっ、じゃあ、試しにこの「巨大烏賊」を
やめてみようか? ほら、消した。ほらね。わーい、お
いしそうな烏賊フライだ、食べよ。食べよ。てなことに
はならぬ。それどころか、団扇をばたばたさせながら、
じろじろこっちを見て、またなにか暑苦しいことを喋っ
ている婆ぁの存在感が際だつばかりで、ますます烏賊を
食うのが嫌になる。しょうがないので自分は、飯を廃す
ことにして、「ごっさん」と口の中で曖昧に言い、「も
うよろしいのんかいな。食べんと体に毒だっせ」と婆ぁ
が怒鳴るのに、「ああ、もういいよ」とますます曖昧に
呟きまだ婆ぁがなんか言ってるのを無視して、廊下の反
対側、仏壇や按摩チェアーなんかの置いてある四畳半の
サイドボードからブランデーのボトルとグラスを取り出
し、隣の六畳の自室に行って、襖を閉めて敷きっぱなし
の布団の上にひっくりかえった。