本・雑誌・ウェブ
光の雨〈前篇〉
立松和平
 未明、カーテンのない曇りガラスに明けるか明けない
かの光が僅かにかかる頃、玉井潔は決まって苦しい夢を
見た。あまりにも苦しいのでその時間目覚めていようか
とつとめたこともあったが、考える状態でいると思いは
つらいほうへ苦しいほうへと傾いていってしまい、覚醒
している生身の自分が意識されてむしろいたたまれなく
なってしまう。もし死ぬのなら自分は未明の頃だろうと、
玉井はなんとはなしに得心していた。今年、八十歳にな
った。ここまで生きてくる毎日毎日、いつも死期を探る
気分になっていたのだった。そのうち目は朦朧として霞
み、耳鳴りがたえずあって必要な音声は聞こえたり聞こ
えなかったりし、香りもよくわからなくなった。感覚器
官は確実に衰え、感情も一定の平穏さに保つことができ
ず、その分確実に死に近づいている。だが死への歩みは、
玉井にとってはもどかしいほどに緩慢であった。
 眠っていたほうがましなのかもしれなかった。その眠
りもぼろぼろの破片になり、眠ったと思えばたちまち覚
める。眠っているのか覚めているのかわからなくなる時
もある。
「法務大臣の命令によってただ今より死刑を執行します」
 朝看守に連れられて管理棟にいくと、所長は目を伏せ
ていった。人の目を見ようとしない所長が放つ憐憫の情
を、どう受けとめてよいのかわからなかった。身体中の
血が凍ったまま逆流するような感じがあった。とうに覚
悟を決めたはずなのに、この恐怖はどうしたことであろ
うか。もちろん玉井にはわかっていた。殺した元の同志
たちに会うのが恐ろしかったのだ。死ぬことによって世
界は自分を赦す、もしくは忘却するかもしれないのだが、
冥界の同志たちは死者となった自分をどのように迎える
のだろうか。冥土でのもうひとつの死があればよいのに、
もしそれ以上死ぬことすらできなかったらどうしたらよ
いのか。死ぬことは二重の意味で玉井には恐怖であった。
だが避けられないのだから、いくべきところにいくしか
ない。
「ありがとうございます」
 自分がこういったのかどうか、玉井に確認はできない。
唇は動きはしたものの、言葉がつくれたのかどうか確信
は持てなかった。その時には毅然としていようと決めた
のに、情けないことである。急に足の裏が地面から離れ、
ふわふわした気分になった。仏間に通され、教誨師が法
話をした。死の縁はおしはかることができないほどたく
さんあり、人は生きている間に因をつくり、それが重な
っていった結果、いつどんな死に方をするかわからない
のです。すでに何度も何度もした話を教誨師がくり返し
ていることはわかるが、玉井は何も聞こえなくなってい
た。ふと気づくと、教誨師は読経をしている。この瞬間
を待っていたはずなのに、この恐怖はなんとしたことで
あろう。
「どうですか、ひとつあがってください」
 急にていねいな言葉遣いになった看守が、仏壇から饅
頭と茶をおろしてくる。玉井はふかし饅頭をつかむ。ま
ず感じたのは、饅頭の皮が指に粘るなあということだっ
た。急にどんよりと重くなったような饅頭を、玉井は口
に運んだ。感覚のなくなった歯で噛むと、口の中に重い
砂でも含んだようになった。噛んでも噛んでも、味はな
い。はきだすこともできず、茶とともに呑み込もうとし
た。しかし、喉にひっかかって呑みくだせず、息が詰ま
った。饅頭は茶に溶けた泥のようになって腹の中に落ち
た。そのことに気持ちを集中させたため、少し落ち着く
ことができた。結局味は感じなかった。
「これで最後のお別れだ。あまりにも急だったから、執
行下剤を飲む余裕もなかったなあ。あとのことは心配し
ないでおきなさい。いい足りないことがあったなら、全
部ここでいい残しておくように」
 いつの間にかそばにいた所長がいう。いい残したこと
をいう間待っていてくれるのかと、玉井は思ってみる。
今ここでしゃべれるわけではないが、語りはじめれば止
まらなくなってしまうかもしれない。
「別にありません」
 口にだしたとたん、玉井はこれから死ぬのだなと思う
のだった。この時を待っていたといえば、待っていたの
だ。看守がきてまず手錠に施錠をし、つぎに目隠しをす
る。聞こえるのは自分の心臓の音だけだった。この先に
は何があるのかわからない。苦に満ちたこの世から離れ、
自分は何処に向かおうとしているのだろうか。わからな
いことが恐ろしい。確かな一歩を踏みだしているつもり
だったが、足元がぐんにゃりとして身体を支えきれない。
身体がふわりと浮かんだような気がしたのは、両脇を誰
かに支えられたのだった。一歩が恐ろしく、千里も進ん
だような気がする。両脇の足が止まるのにあわせて、玉
井も歩みをやめる。両側から支えがはずれた刹那、首に
絞縄を巻かれたのだった。看守の息遣いが聞こえた。身
体がぐらぐらしても、自分で立っているより仕方がない。
身を押し潰すような恐怖に耐えている。溶けて流れてい
きたかった。こんな思いをするのも、これが最初で最後
だ。爆発するような大音響がすると同時に、足元の床が
落ち、玉井はぶらさがっていた。ロープの先にさがりな
がらも、うっと唸り声を上げ両腕でロープをつかもうと
もがいている自分自身の姿を、玉井は見ていたのだ。執
行下剤を飲まなかったせいか、下からも上からも汚物が
でている。死にゆく自分が、人間ではない別のものにな
っていくような気がした。身体から離れてしまったのだ
から、まったく苦しくはない。もがいていた手足の動き
が痙攣に変わり、手も足も力なくたれさがって、やがて
すっかり動かなくなった。玉井は自分がぶらさがってい
るすぐ脇で読経しつづける教誨師と、自分の手首を握っ
ている医官とを見ていた。医官は全身で呼吸をするよう
にしてストップウォッチを押す。それから顔を上げ、誰
に向かってともなく疳高い声で叫ぶのだ。
「報告します。報告します。死刑は終りました。午前九
時四十八分執行、死亡十時二分四秒。所要時間十四分四
秒」
 これで何処にでもいけるなと、まず玉井潔は思ったの
だった。苦の軛から逃がれ、自由自在に動けるのだ。だ
がいくところはない。自分を受け入れてくれる空間が、
少なくともこの世にあるとは、とうてい玉井には思えな
かった。だからこそあの世にいきたかったのではなかっ
たか。