光の雨〈完結篇〉
立松和平
◎主要登場人物
玉井潔=古アパートに住む八十歳の老人。元革命共闘の
指導者で、殺人の罪で死刑判決 を受け、死刑廃止に
より出獄。仲間を殺害したときの様子を少年たちに話す。
阿南満也=玉井の隣の部屋に住む予備校生。玉井の話を
聞く。
高取美奈=満也の予備校仲間。満也とともに玉井の話を
聞く。
倉重鉄太郎=かつての赤色パルチザンの指導者。革命共
闘との統一党・革命パルチザンの中心人物となる。
上杉和枝=かつての革命共闘、のち革命パルチザンの指
導者。玉井と結婚していた。
爺いは眠っていた。話の区切りをつけるまでは話すの
だという爺いの意志は強く感じられたのだが、言葉がも
つれるようにして外にでていかなくなり、苦しげな息に
すぎなくなった。それでも爺いの話したいことが高取美
奈にもわかったのは不思議なことだ。だがとうとう爺い
は唇を弱々しく動かすだけになり、それもなくなった。
阿南満也が爺いの手首を掴んで親指をあて、少し笑って
頷いた。枯枝のような爺いの手首を美奈もとる。あてた
親指に、力強くというのではなかったが、確かに鼓動が
伝わってきた。爺いが真暗闇の中を歩いて遠ざかってい
く足音のようだなと美奈は思ってみる。枯木のようなの
は手首だけでなく、全身もだった。美奈の力でも簡単に
折れそうだ。人間なんて肉と骨とでできているだけで、
命など煙のようなものではないか。煙はちょっとしたこ
とですぐに逃げてしまう。
「恐いわね」
口を動かしながら美奈は爺いの手首から手を放し、先
程まで自分自身の物語を執拗につづけたこの人物が今も
生きているのが不思議に思えてくる。この痩せこけて乾
燥した身体の中には、恐ろしい物語がぎっしりと封印さ
れてきたのだ。爺いはこんなに長い物語をしたのに、語
ったのはまだまだ一部でしかないらしい。それなのに爺
いの命がまさに尽きようとしていることが、美奈には掌
にとるようにわかった。物語を最後まで聞くのが使命の
ような気が美奈にはしていた。
「どうしようか」
恐いものを見てきたばかりの目をして、満也がいう。
満也は逃げようとしているのではないかと、美奈はあや
ぶんだ。
「どうするって」
「救急車を呼ぼうか」
満也は美奈の目を見ずにいう。爺いの皺だらけの顔が、
眠っているのに苦悶に満ちていた。死んだ同志たちが夢
の中にもでてきているのかもしれない。その悪夢の中に
自分も片足踏み入れていると感じ、美奈は一段と恐怖を
持った。目は落ち窪み、歯もなく、白い眉毛と鼻毛ばか
りが伸び、皺だらけの皮膚のいたるところに染みが散ら
ばっている。髪はもういくらも残っていず、粉がふいた
ような地肌が透けている。疲れ切って横たわっているこ
の老人の内部に底知れぬ闇があることは、美奈と満也の
ほかは誰も知らないのである。闇はねばねばして始末が
悪く、一度肌にくっついたらとれない。たぶんこの老人
が死ぬまでとれないだろうと美奈は思う。
「自分の身体は医者に診てもらっちゃいけないんだとい
ってたでしょう。長生きしたくもないんでしょう。この
人の気持ち、よくわかるわよね」
「こんなに弱ってるから、もうすぐ死ぬぞ」
「聞こえるわよ」
「夢を見てるんだ。殺した人間と話してるんだよ。爺い
はずっとそうしてきたんだ。こっちの声なんか聞こえな
いさ」
妙に確信を持ったふうに満也はいう。満也が爺いの話
を聞きはじめたのは、一日早いだけなのである。そこま
で断定できる理由が美奈にはわからない。
「死んじゃうのかしら」
「見ててやろう。まだまだ話し足りないんだ。起きたら、
きっとまた話しだすさ」
「聞くほうも苦しいね」
「体力と気力いるよな。飯食いにいこう。当分ぐっすり
眠ってると思う」
満也が立上がったので、美奈も爺いに掛かっている毛
布を直してから立った。その瞬間、軽い衝撃とともに頭
の上で光が爆発する感じがあった。裸電球に頭をぶつけ
たのだ。コードの先の電球が揺れ、その何倍もの角度で
部屋が右に左に傾いた。動き回る電球を、指先で摘んで
つかまえた。熱い指を口にくわえて冷ます。頭の皮膚の
表面に痛みと熱とがまだ揺れている。満也がドアを開い
たままで美奈を待っていた。
「お爺ちゃん、一人で革命戦争やっててね。お爺ちゃん
が革命をやりとげてくれなかったから、きっと私たち苦
しいのね」
思わずこういってから、美奈は爺いのことが少し理解
できたような気がした。爺いは革命を見失ったといって
いるのだ。見失った果ての世の中が、今美奈や満也が生
きようとしているこの場所なのだった。
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