パリに結ぶ夢の深さ
――「マロニエの花が言った」完結篇
清岡卓行
中国から東南アジアへ
一九二八年十二月初旬のある日の午後遅く、金子光晴
と森三千代は長崎から上海に向かう連絡船に乗り、翌日
の朝、上海の淮山瑪頭の岸壁に降り立った。二人の荷物
はファイバーのスーツケース二つと、三千代の父が長崎
で買ってくれた豚皮の大きなトランク一つだけで、中味
はほとんど夏と冬の衣類であり、二人の財布には合わせ
て日本金の五円六十銭しかなかった。
電報で到着を知らせておいた画家の宇留河泰呂が迎え
にきてくれていた。三人は、客を奪い合うようにしてひ
しめく黄●車(人力車)のなかから、それぞれ一台を選
び、荷物一個ずつといっしょに乗った。縦の一列になっ
た三台は四川北路を北に走り、なじみの石丸りかが住む
余慶坊一二三番地に向かった。
空は曇っている。町のなかには金子夫妻にふしぎな懐
かしさを覚えさせるあの匂い、光晴の言葉を用いるなら、
「蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがま
ざりあっ」て、「人の個性まで変えてしまいそうな」、
異様とも魅惑とも感じられるあの生活の匂いが漂ってい
る。
冬でも裸足で走って黄●車を引く者もたまにいる車夫
という苦力の群れは、その収入が少なく辛苦の多い生業
を通じ、上海の底辺の現実を街頭において一つの角度か
ら鋭く浮かび上がらせていた。
そのころ、ある金持ちに雇われていた黄●車の車夫が
その家の令嬢と恋に落ちるという珍しいできごとがあっ
た。民主的な新しい思想がすでにかなりひろがっている
半植民地的な国際都市上海において、この愛の実行は大
きな人気を呼び、毎日のように新聞が書き立てたりした。
余慶坊に着いた三人は、二階建て煉瓦づくりの長屋が
並ぶなかを歩いて一つの門を叩いた。「へーい。どなた
でしゅ」と長崎弁で返事して現われた石丸りか、――唐
辛子婆さんという綽名がついていたとおり顔を赤くして、
寒くても薄着をし、痩せてすらりと背の高い独身の老女
は、二年半ほど前に部屋を貸した金子光晴と森三千代が
突然また旅行の荷物をぶらさげて訪ねてきたのを見て、
驚きながら嬉しそうに、「あなたがた、どっから降って
来よりましたか。この天気に」と、曇った空を見上げて
みせたという。
金子夫妻は、以前に借りた二階の明るい表側の大きな
部屋がしばらく空かないので、それと向かいの薄暗い裏
側の小さな部屋に一応落ち着いた。そこで、宇留河泰呂
は二人に、夕食をごちそうしにまたやってくるからと言
って去った。
金子夫妻は一休みしたあと、筋向かいのところにある
内山書店に挨拶に出かけた。内山完造はやはり元気そう
に坊主頭でジャケツを着ていたが、四十代半ばの貫禄が
出てきたような感じで、二人をおおらかな親しさをもっ
て迎えてくれた。光晴は早速、今度は行先がパリでおま
けに旅費がほとんどない事情を簡単に話し、なにか自分
に向くような仕事があったらよろしくと頼んだ。
風変わりな人物をたくさん見てきた書店主もちょっと
呆気にとられたような顔をしたが、数日のうちになにか
あるかもしれない、と明るく答えてくれた。
宇留河泰呂が金子夫妻を夕食に招待した店は、洋風の
広東料理「新雅」であった。パンさんという愛称をつけ
られているこの二十代半ばの画家は前衛芸術派で、なぜ
か光晴と馬が合ったが、やがてパリに渡る夢を抱いてい
たから三千代とも話が合った。頭髪は藤田嗣治ふうのお
河童にし、セーラーズボンを穿いて、日本の会社の上海
支店の社宅の留守番などをし、風来坊のような生活をし
ていた。
パンさんは中国の新しい文学者のあいだでかなり人気
があった。魯迅の詩集『柳絮』の装幀をしたり、郁達夫
たちの文芸誌の表紙、日中両文の綜合誌『万華鏡』の表
紙やカットなどを作ったりしていた。内山書店の奥の溜
まり場、冬には暖かいストーヴがある憩いと雑談の場の
常連の一人でもあった。
パンさん自身、内山書店について後年こんな文章を書
いている。
●は車へんに包
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