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日蝕
平野啓一郎
神は人を楽園より追放し、
再度近附けぬように、その地を火で囲んだのだ
――ラクタンティウス「神の掟」

 これより私は、或る個人的な回想を録そうと思ってい
る。これは或いは告白と云っても好い。そして、告白で
あるが上は、私は基督者として断じて偽らず、唯真実の
みを語ると云うことを始めに神の御名に於て誓って置き
たい。誓いを此処に明にすることには二つの意義が在る。
一つは、これを読む者に対するそれである。人はこの頗
る異常な書に対して、径ちに疑を挿むであろう。私はこ
れを咎めない。如何に好意的に読んでみたとて、この書
は所詮、信を置く能わざる類のものだからである。多言
を費して無理にも信ぜしめむとすれば、人は仍その疑を
深めゆく許りであろう。然るが故に、私は唯、神に真実
を誓うと云う一言を添えて置くのである。今一つは、私
自身に対するそれである。筆を行るほどに、私は自らの
実験したる所に耐えずして、これを偽って叙さむとする
やも知れない。或いは、未だ心中に蔵匿せられたること
多にして、中途で筆を擱かむとするやも知れない。これ
は猶偽りを述べむとするに変わる所が無い。これらを虞
れるが故に、私は誓いを敢えて筆に上し、以て己を戒め
むとするのである。
 冀、上の誓いと倶に、下の拙き言葉の数々が主の御許
へと到かむことを。――
 千四百八十二年の初夏、私は巴黎からの長い旅路を経
て、孤り徒より里昂に至った。回想の始めとして、私は
先ずこれに及ぶまでの経緯を簡単に明して置こうと思う。
 巴黎大学に籍を置き、神学を学んでいた私は、当時の
自分の乏しい蔵書の中に、或る一冊の古びた写本を有し
ていた。一体、写本とは云っても、凡そ本としての体裁
は整っておらず、表紙も無く、所々に随分と脱簡が看ら
れ、就中前半の頁はそっくり抜け落ちてしまっていたか
ら、寧ろ写本の一部とでも云っておいた方が好いのかも
知れない。内容は羅甸語に翻訳せられた異教徒の哲学書
らしかったが、書名は頁と倶に失われていて不明であっ
た。
 私がこれを如何なる事情を以て手に入れたのかは、今
では解らない。或いは、知人が外遊先から持ち帰ったも
のを譲り受けでもしたのかも知れないし、或いは又、そ
れを借りた儘で返さずにいたのかも知れない。私の交遊
の範囲などはその頃より知れたものであるから、無理に
もそのいきさつを突き止めむとすれば協わぬこともある
まいが、そのこと自体は然して重要でもないから、兎に
角先へ進むことにする。
 私はこの得体の知れぬ写本に頗る興味を抱いていた。
そして、座右に置き折に触れて読み返してみては、孰れ
是非ともこの完本を落掌したいと願うまでになっていた。
 書名は軈て明になった。即ち、千四百七十一年に仏稜
で上梓せられたマルシリオ・フィチイノの『ヘルメス選
集』であった。これを調べるには、私は些か骨を折らね
ばならなかった。と云うのも、今では遍く知れ渡ったこ
の著名な書物でさえも、当時の巴黎に於ては、未だ極限
られた人のみの識る所であるに過ぎなかったからである。
それ故に、どうにかその原本を求めむとする私の努力は、
悉功を奏せず、学業の傍ら八方手を尽くしてはみたもの
の、終にそれを得ることは協わなかった。
 然るに、このことを聞き附けた或る儕輩は、私に里昂
に行くことを勧めた。彼はこう云った。巴黎ではやはり
それを手に入れることは出来まい、しかし、地中海諸国
との貿易の昌んな里昂であれば、懼らくはその手の文献
も見附かるであろう、私が為にも、亜力伯を越え、仏稜
にまで赴くのは些か難儀であろうが、里昂までであれば
然程苦にもなるまい、と云った。
 この忠言が、如何許りの真実を含んでいたのかは解ら
ない。私は今、そのことを、寧ろ頗る疑わしく思う。何
故と云うに、サンフォリアン・シャンピエに縁ってフィ
チイノの思想が里昂に齎されたのは、これよりも遥かに
後のことだからである。
 しかし、当時の私は、この詞の真偽に就いて慥かめる
を得なかった。私が為には、それをするに足るだけの充
分の智識も、又充分の時間も無かったからである。それ
が故に、私は猶胸中に多少の疑を抱きつつも、兎に角こ
の儕輩の詞に従うこととし、学士の号を得た機会に、単
身巴黎を発たむと意を決したのであった。