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ゴールドラッシュ
柳美里
 少年に目を止めた通行人はひとりもいなかった。強い
陽射しでハレーションを起こし非現実的に見える伊勢佐
木通りを直進している少年は、両側の店がしだいに陰影
を取り戻すに従って速度をゆるめ、ひょいと左に折れて
通りから姿を消した。
 黄金町は陽光を拒んでいる、というより独自の灼熱を
内部に秘めているので陽光のほうが町を避けているとい
うべきかもしれない。上空から見ると、白昼でさえ住人
たちは人工灯を必要としているのではないかと思わせる
ほど町全体が洞穴のような闇に包まれている。狂暴と頽
廃の熱はノイズとなって近づこうとしている外部の人間
の耳を劈き、町に寄せつけようとはせず、恐怖に目を閉
ざしている人間は危険な歓楽街だと決めつけて足を踏み
入れようとはしない。ここは欲望の租界なのだ。ほかの
歓楽街はその時代時代の波をまともにかぶり変貌するし
かなかったが、黄金町は欲望を畸形化することなく、セ
ックスと麻薬を適正価格でひとびとに供給しつづけてい
る。
 路地裏の日陰に溶け込んだ少年は大きく息を吐いた。
腕時計を見ると、四時三十分を過ぎている。ひと月前、
十四歳の誕生日に父親からもらったロレックスだ。約束
の時間まであと二十七分、と確認しながら、少年は路地
を抜けて大岡川に沿った通りに出た。容赦ない真夏の光
に殺られて茶色く干涸びているつつじの植え込みには黄
金町環境浄化対策推進協議会の立て看板が倒れ、そのす
ぐ横に乗り上げたリアカーのなかからは鍋釜や布団や物
干しがはみ出し、垢まみれの体臭がバリアーのようにリ
アカーを取り巻いて持ち主の所有権を主張している。
 少年は川を見下ろし、使い古しの天ぷら油のように黒
く澱んで流れる気配を見せない水面に白い塊が浮いてい
るのを見つけたが、猫の死骸だと確認すると、猫ではな
く赤ん坊の死体が浮いていたとしても自分は警察に知ら
せには行かないだろうという考えが川面の泡のように浮
かんで消えた。悪臭を放つ黄昏、ガード下の定食屋から
は玉葱を炒める臭い、高架に沿った路地からは娼婦たち
の饐えたミルクのなかに香水をぶちまけたような臭い、
それらがむしむしする空気のなかで満ちたり引いたりし
ながら押し寄せてきて、少年は口をひろげてふかぶかと
息を吸い、慣れ親しんだ臭いをからだのなかに入れた。