サハリンでのこと
九月十六日 サハリンで開かれるマイノリティー・フォ
ーラムに参加するために早朝家を出る。羽田空港で参加
者一同と合流。台風五号の北上ではたして飛行機が飛ぶ
かどうかおおいに懸念されたが、三時間待たされたあと
で、なんとか羽田から函館に向った。函館空港でただち
に国際線にのりかえ、小型プロペラ機でサハリンに向う。
ユージノ・サハリンスク空港に着いたのは夕方四時だが、
時差が二時間あるので時計の針をすすめた。先発組のチ
カップ美恵子さんらが出迎えてくれた。私の親戚たちが
抱きついてきた。
九月十七日 フォーラム参加者たち四十名ばかりはバス
に乗り、西海岸にあるホルムスク(旧真岡)に向った。
私の生まれ故郷である。一行は市内を見学し、そのあと
パジャルスキー村(旧瑞穂村)に赴く。日本敗戦の直後、
この村では日本軍属らによる朝鮮人虐殺が起り、二十七
名が死んだ。その慰霊碑をおとずれたのである。三年前、
私がこの場所にきて見たのは古びた木製の碑であった。
誰かが被殺者を悼んで建てたものであろうが、歳月を経、
今にも朽ちそうになっていた。今見る碑は石造りのもの
で韓国の犠牲者追悼会の人々が建てたものだという。一
行は、死者の冥福を祈り、帰路に着いた。戦争のパニッ
クが惹き起した惨劇とはいえ、死者は浮かばれない。こ
の碑の存在を知らぬままツアー旅行を楽しむ日本人がや
たらふえている。
九月十八日 フォーラム会場にいくと、サハリン在住の
先住民族であるアイヌ、ニブヒの代表、さらに朝鮮系ロ
シア人(以後カレイスキーと呼ぶ)がきていた。しかし、
その数が少ない。とくにカレイスキーが十名くらいしか
来ていない。理由はあとでわかったが、サハリンの朝鮮
人内部の分裂が厄いしているらしい。自分たちは少数民
族ではないから参加しないというのだが、私からみると、
心が狭い。全員で六~七十名くらいの参加者となった。
午前、私は「サハリンでの少数民族との出会い」と題
して一時間しゃべった。私なりに日頃考えていることを
率直に述べた。その内容を北海道新聞の西田記者が的確
にまとめて報道している(九月十九日)ので引用したい。
「自分自身の解放と同時に他者の尊厳を大切にすること
こそ、マイノリティーの神髄」。
講演の直後、ユージノ・サハリンスク市長の補佐役を
している李國珍氏が挨拶を求め、後日会ってほしいと言
った。何のことか分からぬまま承諾する。
九月十九日 フォーラムの合間をぬって街の中を歩く。
サハリンはこの頃の季候がいちばんしのぎやすい。暑く
もなく寒くもない。ナナカマドの樹に赤い実がみのって
いた。少年の頃のあれこれが頭をよぎっていく。駅前で
友人といっしょにタクシーをつかまえ、地図を頼りに教
会に行く。まず韓国人の教会に到着、その大きさに驚く。
勿論、ソ連時代には教会などその影もなかった。ソ連崩
壊後、次々に韓国から牧師があらわれ、教会が一つ二つ
と建っていった。知人にきくと、インチキ牧師もいるし
立派な牧師もいるそうだ。現在、韓国人の教会は四つあ
る。中には統一教会系のもあるとか。
白亜の堂々としたロシア正教会に行くと、正門のわき
に乞食が三人立って物乞いしていた。中に入ると、教徒
が敬虔な面持ちで正面のイエス・キリスト像に拝跪して
いた。かねてから聖像を手に入れたいと思っていたので
売店でもとめる。いまサハリンでは宗教人口が急増して
いるようだ。パンのみにて生きるにあらず、というが、
きょう日のロシアではそのパンもなかなか買えない。ル
ーブルの下落は秋のつるべ落しだ。公定レートは百ドル=
千ルーブルだから「生活できない」と市民はあえいでい
る。年金生活者の中では乞食になる者が出てきている。
マフィアーと資本家だけがわが世の春を謳歌している。
レーニン広場の前を走るのは日本の中古車ばかりである。
チェーホフ劇場のわきに彼の像があった。一八九○年に
サハリン島を踏査したチェーホフは今のサハリンをどう
想うだろうか。チェーホフは甘かったのか。それとも時
代の激動が人間のすべての予想をはるかにこえていたの
か。
九月二十日 昼、ユージノ・サハリンスク市役所で李國
珍氏ら三人のカレイスキーと会う。知ってみると彼らは、
韓人永住帰国促進会の主要メンバーで、日本からやって
きた私に協力を要請しようとしていた。一九四七年に、
この島を去った相手とはいえ、私が樺太生れであること
からきっと人間の義理を重んじてくれるかもしれないと
思ったのだろう。聞けば、五百世帯の老夫婦が来年には
韓国に永住帰国して養老院生活をすることになっている
が、この問題をめぐり、カレイスキーの間では意見の対
立と分裂が生じているらしかった。李氏らの言い分によ
れば、永住帰国する老夫婦にはせめて子供一人は帯同さ
せるべきで、そうしないと親子のきずなが切れ、新たな
離散家族をつくってしまうというのである。どうか金大
中大統領に実情を訴えてほしいと言う。私にそんな力な
どないのだが。聞けば聞くほど、つらい状況にあるのが
分かった。別れしな、三人の方々に韓人協会のメンバー
とよく相談してやって頂きたいとお願いする。サハリン
在住五万人のカレイスキーを対象とする団体が二つに割
れてしまっている。
夕方六時からホテルの食堂でマイノリティー諸民族の
交歓会が行なわれた。アイヌやニブヒ、「在日」のそれ
ぞれが自民族の踊りを披露し、ムックリを鳴らし、杖鼓
を打った。楽しい交歓の一刻である。明日は日本に帰国
する組とポロナイスク(旧敷香)へ北上する組とに別れ
る。
夜九時に私は交歓会の場から抜け出した。李ハンピョ
氏の自宅に招かれていたからだ。同行したのは毎日新聞
のM記者と札幌の大学教授、それに雑誌編集者の三人だ
った。私より三、四歳年上の李氏とは旧知の間柄だった。
私が一九八一年にソ連作家同盟の招待をうけ初めてサハ
リン入りしたとき、彼は『レーニンへの道』新聞社で平
編集者をしていた。どこか遠慮勝ちに振る舞っていたの
を覚えている。家に入ると、御馳走がテーブルいっぱい
にあふれていた。奥さんの金ヨンビンさんが腕を振った
のだ。彼女はおだやかで品の良い女性だった。日本が敗
戦した年、国民学校六年生だったという。私は五年生で
一年下だが、おなじ「国民学校」の世代のせいか懐かし
さを誘われた。
しかし、まもなく私はショックを受けることになった。
それは一年上のこの女性がどんな境遇の下で生涯を過し
てきたかを知ったからである。
「家内の日本語の翻訳ときたらピカ一です。サハリンじ
ゃ敵う人はいない!」と酒が入って多弁になった旦那さ
んが自慢をはじめた。
「そんなー」と金ヨンビンさんは遠慮したが、「ずっと
翻訳だけやってきたものね」ともらした。
そのわけはこうだった。金ヨンビンさんの父親は日本
時代、落合町で協和会の副会長をしていた。一九四八年、
ソ連の秘密警察がやってきて父親を逮捕した。日帝の走
狗として摘発されたのだ。父親は、ハバロフスクの軍事
裁判で二十五年の刑を宣告され、シベリアに送られた。
その日以来、彼女は父親と会っていない。当時、彼女は
十三歳の少女だったので刑罰こそ受けなかったが差別さ
れた。その後はどんなに優秀であっても父親の件が禍い
して共産党員になることができなかった。党員であるこ
とは出世を意味していたのだが。『レーニンへの道』新
聞社での彼女は記者にもなれず、任される仕事は「翻訳」
と決まっていた。こんな自分と結婚したために旦那もず
っと苦労したと彼女は思っていた。
私は彼女の身の上を知って深い同情を禁じえなかった
が、同時に運命が紙一重の違いで決定的に異なってくる
ことに恐れをも感じていた。私の父親も真岡町で協和会
の副会長をしていた。もし、金ヨンビンさんの父親が逮
捕される前年、私たち一家が日本に渡っていなかったな
らばいったいどうなっていただろう。事と次第では、私
がサハリンで暮らしながら「翻訳」をしていたかもしれ
ぬではないか。
どうすればサハリンのカレイスキーの為に役立つこと
ができるだろうか。
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