ぼくたちの(俎板のような)拳銃
辻征夫
それよりも古い時代については、「これより先は
不可思議と神秘に満ち、詩人と神話作者の住むとこ
ろにして、信用もおけず、明確でもない」と言って
もかまわないだろう。
プルタルコス英雄伝(村川堅太郎編)
1 海辺の情景
カズナリは学校の近くまで来て同級生の姿を見たとた
んに笑い出してそれはとめようとしてもとまらなかった。
まだ薄暗いうちに家を出て長い道のりを一人で歩いてい
るうちは、それは大きなうれしさのかたまりでカズナリ
の内側にあって、さすがに顔だけは笑みを浮かべていた
ものの黙って歩いていたが、校門が見え何人かのお友だ
ちのうしろ姿が見えるとまずカズナリの口からワと声が
漏れ、それから続いてハハハハ、ハハハハと声が漏れは
じめた。カズナリは教室では笑わない子だった。勉強の
方は数えなくてもわかっていて男女あわせて三十人のク
ラス中三十番目、それも二十九番とはだいぶ開きがある
不動の三十番だった。ことによったら知恵もすこし遅れ
ていたかもしれない。カズナリは教室でじっとしている
ことができなかった。みんながしているからカズナリも
黒板の字を写そうとするとちびた鉛筆が手から落ち、前
の席の女の子の机のわきまで転がって行った。それを拾
おうと前に出てかがむと半ズボンのお尻が女の子の机を
少し動かした。とたんに女の子はせんせーいカズナリ君
が邪魔をするんでーすと声を張りあげた。ちょっと机が
動いただけじゃないかどうしてすぐそういう声を出すの
だろうと考えながら自分の席に着くとこんどは消しゴム
が跳ねあがって床に落ち、黒板の方に弾んで行った。す
ぐに取って来なければと腰を浮かしかけるとカズナリこ
んどは何だとすぐそばで声がして、えっと顔をあげるよ
りはやくもう先生が眼の前に立っている。カズナリお前
はどうしていつもちょろちょろ動いているんだ、今日は
もう椅子から離れちゃいかんといつ用意したのだろう、
赤いしごきでカズナリの腰を椅子に縛りつけた。いいか
自分でほどいちゃだめだぞと言って先生は黒板の前にも
どって行ったが、カズナリは何か大事なことを忘れてい
るような気がしてそれを早く言わなければとあせるがそ
れが何か思い出せない。思い出せないけれどもそれはと
にかく急ぐことでえーと何だっけと考えているうちに、
急激な解放感がカズナリを襲って半ズボンがみるみるう
ちにぐしゃぐしゃになった。あ、そうだったおしっこが
したかったんだと思い出すのとまわりのやつらがせんせ
ーいカズナリがしょんべん漏らしたあと叫びだすのが同
時だった。いやだあと女の子は眉をひそめて汚いものを
見るように(事実カズナリは汚かったが)横目でカズナ
リの濡れた半ズボンを見ている。カズナリは椅子に縛り
つけられたまま、たしか床屋にあった大人の雑誌にこん
なのがあったと一枚の挿絵を思い出したが、それは山賊
に捕えられた武家の娘が髪を乱して、どなたか助けてく
だされと憂いにみちた瞳を天に向けているもので小便を
漏らしたカズナリとは似ても似つかぬ風情だった。やー
だあ、あたしの方まで流れて来るとカズナリが日頃いち
ばん可愛いと思っている女の子が大きな声を出した。
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