父
小林恭二
1
一九九四年七月九日、わたしは東京から兵庫県の宝塚
市に赴いた。
宝塚には亡くなった父母の家がある。
九月には売りに出す予定だったので、それまでに家財
の整理をしなければならない。
父母の家の入っているマンションは山際にあり、裏手
を川が流れている。そのせいか普段は夏も涼しい。
しかしタクシーをおりると、まるで東京の街中に舞い
戻ったような、むっとする熱気に襲われた。去年は冷夏
だった上、父母が相次いで亡くなって暑さを感じる暇も
なかった。その前の年は標高の高い場所でひと夏過ごし
た。この世ならぬ暑さに思えたのはそのせいだと思った。
もっとも今から思えばその夏は記録的な猛暑だったのだ
が。
わたしと妻と子供は、エレヴェーターで三階にあがっ
た。
チャイムを押すと、義姉が出てきた。彼女もまた、家
の整理のため静岡県の富士市からやってきていた。
部屋の中も外と変わらない暑さだった。
「この前直したばかりなのにまたクーラー壊れちゃった
のよ」
部屋の中は暑さもさることながら、ところかまわずダ
ンボールだの、梱包された家財だのが転がっており、ひ
どく索漠とした眺めだった。殊に三十畳弱の広大な居間
は、格好の荷物置場にされており、足の踏み場もない有
様だった。
わたしたちはメゾネットの二階の唯一クーラーが壊れ
ていない部屋に荷物を置いた。
それから妻は義姉と一緒に食器類の仕分けを始めた。
妻はもう何度かこの家を訪れており、今回はその総仕
上げで来ていた。
家財の整理はずっと妻に任せきりだった。妻はこの家
から戻ってくるたびに、わたしの子供の頃の通知簿を発
見しただの、母のウォーキングクロゼットからあきれる
ほど多量のブランド製品が出てきただのと報告したが、
わたしは常に聞き流していた。忙しかったせいもある。
また、ものに対する関心の薄さもある。しかし何よりも、
わたしは宝塚のこの家については考えまいとしていた。
両親が亡くなるずっと前から考えたくなくなっていた。
今日、わたしがやってきたのは、父の遺品である書籍
を検分するためだった。
もっとも検分と言っても、古本屋に引き渡す前に少し
でも価値のありそうな本を抜いておくという、ただそれ
だけのことだったが。
この家はどの部屋にも本棚があった。
殊に一階の食堂を兼ねた居間は、本棚が壁をうめつく
している上、父の巨大なライティングデスクが主役然と
して据えられていたため、居間というよりは食事も摂れ
る書斎といった感じだった。
部屋に入って左手の飾り棚風の本棚には、仏教関係の
書物がぎっしり詰まっていた。「国訳大蔵経」と「大乗
仏典」がそれぞれ数十冊ずつ。加えて天台本覚や唯識に
関する論文があった。
ライティングデスクの後ろ側のスライド式本棚には、
父が普段よく手にとる仏典や哲学書、更には日本の古典
文学書が集められていた。最晩年愛読したスティーブン・
キングの諸著作、若干の現代小説、それに橋川文三の著
作集もあった。
わたしはこうした中から、自分の仕事用に古典文学書
と石川淳全集を抜いた。仏典が高価であり、またその関
係書に稀覯本が少なくないことも承知していたが、自宅
及び仕事場の収容能力を考えると手を出しかねた。
加えて興味もなかった。
わたしは思春期に父から毎日のように仏教や哲学につ
いて講義され、また大学でも美学科という哲学科の弟分
のような学科に所属したわりには、これまで哲学に積極
的な興味を抱いたことは一度もなかった。おそらく頭が
そういうふうに出来ていないのだ。これからも興味を抱
くことはないであろう。となればこんな場所塞ぎの本ど
もを引きとってやるいわれはない。
哲学書をいくらか引き取ったのは兄の方だった。兄は
純然たる理系の人間で、わたし以上に哲学には縁遠い。
それにこれらの本の価値がわかるとも思えなかった。父
が亡くなったとき、折角全冊揃った仏教全集から、兄が
無造作に一、二冊ずつ引き抜いては棺の中に入れるのを
見て、わたしは思わず舌打ちをした。全冊揃いとそうで
ないものでは、古本屋に売った時の価格に雲泥の差が出
る。兄が引き抜いた一、二冊は安く見積もっても何万円
かになったはずだ。そんな兄がいったいなぜ、哲学書や
仏典をひきとったのだろう。四人いる男の子のうちの誰
かが将来興味を示すかもしれないと思ったのだろうか。
わたしのみるところそんな可能性は一パーセントだって
ないのだが。
サイドボードの上には『小林俊夫翻訳集』なるものが
専用ケースに収められている。厚手の百科事典ほどの本
が全部で十四冊。
小林俊夫というのは父の名前である。
「戦略的最新情報資料」という副題が記されていた。
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