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地上八階の海
角田光代

 アパートの部屋に鍵をかけ、建物の入り口にある集合
ポストをのぞいた。クリーニング屋の割引ちらしと、手
紙が一通、ひっそりと入っていた。ちらしをそのままに
して、手紙だけ手にして建物を出る。おもてはぼってり
と重たい曇り空だった。立ち止まり手紙に目を落とす。
住所も私の名前も書かれているが、切手が貼られていな
い。白く薄い封筒を裏返すと、一か月前にわかれた男の
名前が書いてあった。
 子供たちが縦笛を吹きながら通りを歩いている。思い
思いの音を勢いよく吹き、笛を口から離してはけいれん
したような笑い声をまき散らしている。それらの声が遠
ざかってから、私はそっとうしろをふりむいた。赤と黒
のランドセルが遠くで揺れているきりだった。
 兄夫婦の住んでいるマンションまでは、二回電車を乗
り換えて、一時間半かかる。週末のあいだだけ泊まるつ
もりで家を出たが、あまり気乗りはしていなかった。
 母のようすがおかしいというのは、義姉のユリコから
幾度か聞いていた。それまでもユリコは用事がなくても
月に一、二度は電話をかけてきて、自分の近況を話した
り、私のようすを尋ねたりしていた。それが最近は一週
間にかならず一度は電話をよこすようになり、母がどこ
かへんだと訴える。私の母親は二か月ほど前に、兄夫婦
のいるマンションの一階に引っ越していた。引っ越して
から何か妙だとユリコは言う。どうおかしいのか訊くと、
家から出てこない、荷物のかたづけもまだしていない、
と言った。それがさして奇妙にも思えなかったので放っ
ておくと今度は、おかあさん、だれかに嗅ぎまわられて
いるとか、そんなことを言い出した、と言ってきた。し
かしそれも私はたいして気にとめなかった。そういう電
話をかけてくるユリコだが、口調にあまり深刻味がなく、
たとえば、引っ越してきたときのまま部屋をかたづけず、
母は段ボール箱に囲まれて暮らしているのだと言ったつ
ぎには、その段ボールには引っ越し屋のマークであるパ
ンダの絵が描かれていて、部屋じゅうがパンダだらけで
あり、自分の赤ん坊が母親の部屋にいくたびはしゃぐの
だ、と続けて、けたけたと笑う。そうしたユリコの口調
から、母の異変というのは想像がつかず、部屋は違うと
はいえ、同じマンションに住むことになった義母をもっ
と知りたいという善意にも思え、私は話を聞き流してい
た。
 母親がボヤを出した、とユリコから電話をもらったの
はその日の朝早くで、動揺がおさまらないらしく、電話
口で幾度もどもりながら、土曜日なのに兄が仕事へいっ
てしまっている、自分一人でどうしていいかわからない、
とくりかえした。しゃべり続けるユリコの背後で、赤ん
坊のか細く泣く声が聞こえていた。
 兄とユリコはほぼ一年ほど前に結婚した。その結婚式
で私はひさしぶりに兄に会い、はじめてユリコに会った。
そのときすでにユリコは妊娠していた。ひとつ年上だっ
たユリコははじめて会った私に、十年来の友達であるか
のようななれなれしさで話しかけてきた。この女は私の
無二の親友であり、私が兄に紹介したのではないかと錯
覚するほどのその人なつこさを、妊娠、結婚という順序
にたいするユリコの照れだと思っていた。しかし結婚後
も出産後も、そのときとまったくかわらない親しさでユ
リコは私に接した。電話をかけてきてはこちらの近況を
訊き、何かというと私を新居に招きたがった。三年前に
父親が死んで、一人で暮らしていた母を、自分たちの買
ったマンションに引っ越すよう再三すすめたのも兄では
なくユリコだった。兄夫婦はそのマンションが売り出さ
れてすぐに買ったが、売れ残った部屋がずいぶんあり、
少しばかり価格の落ちた一階の部屋を、住んでいた土地
を手放した金で母は買った。