服部さんの幸福な日
伊井直行
1
搭乗した旅客機が墜落することがわかったとき、服部
さんが最初に考えたのは、十日ほど前に発注した、来週
末に納車される予定の新車のことだった。
次に出張の目的地である工場の事務所をタクシーの窓
越しに見たときの光景が瞼の裏に浮かんだ。薄いブルー
の窓ガラスが三層の縞となって灰色の外壁を区切り、車
寄せのひさし以外には突起物のない立方体の平凡な建物
である。つづいてその事務所の応接室にお茶を運んで来
る女性事務員の、制服の青いベストの上で少しばかり重
たそうなえらの張った顔を思い出した。つややかな黒髪
や人なつこそうな微笑み、なによりその若さが彼女をチ
ャーミングに見せていたが、服部さんは彼女に特に心を
惹かれた覚えはなかった。それならもっと別に、思い出
していい顔があるはずだった。
その後に、服部さんは七歳の娘、五歳の息子、そして
二人の母親である妻のえり子のことを考えた。しかし彼
らの姿は、雨降りだらけの古い映画を見ているようにぼ
んやりとしていた(服部さんの家族は早朝なのか夕方な
のか、明かりをつけない薄暗いダイニングルームにい
た)。服部さんはいぶかった。子供や妻との生活に不満
や倦怠がないわけではないが、新車や取引先の方が家族
より大事であると常日頃考えていたはずはなかった。
隣席の服部さんよりいくつか若い三十代半ばと見える
会社員、地味だがよく見れば生地も仕立ても上等そうな
濃灰色のスーツを着たエリートビジネスマン風の、とい
うよりなんとも偉そうな態度で感じの悪かった男が、灰
色のカーペットで覆われた床面に向かって大声で叫び始
めた。
「なぜだ……なぜだー!」
男が床に向かって叫んだのは、乗務員の指示により、
服部さんたちは両手で足首をつかみ頭を膝の間に入れる
緊急着陸に備えた姿勢をとっていたからだ。
人並みの人生しか送っていなくても、事故や事件は自
分がその当事者になるまでは他人事としか思えないもの
だ。順風の人生を送って来たかに見える隣席の男は、不
幸が他人ではなく我が身を襲うことなど思いもつかなか
ったのだろう、と服部さんは想像した。つい何分か前、
片側のエンジンの辺りでなにか爆発したような純白の閃
光がきらめき、一方の主翼の三分の二ほどを吹き飛ばし
てしまうまでは。
飛行機が何ともいやな具合に横滑りし、続いて渦の中
に吸い込まれていくような急激な降下が始まると、隣席
の男の声はやんだ。何度も繰り返された「緊急降下」の
アナウンスに乗客は一縷の望みをつないでいたのだが、
今や、すでに失神してしまった幸運な乗客を除いては、
降下というより落下に近い状態であることを認めざるを
得なくなった。
服部さんは少しだけ顔を上げて隣りの男の様子を見よ
うと思い、足首をつかんだ両手の力を緩めた。するとそ
の途端からだを後方に押し戻す強烈な力が働き、服部さ
んの上半身は座席の背面に押しつけられた。四つ折りに
された新聞紙が宙に浮かんだまま服部さんに近づいて来
て、ゴシック体で印刷された「無料お試しセット進呈中」
という横書きの一行が目の前を流れていった。
服部さんは何かを叫ぼうとした。だが耳が激しく痛み、
顎の関節がこわばって声を出すことはできなかった。
……なぜまだ失神できないんだ。人は、落下状態では
意識を保つことはできないはずなのに。エリートであろ
うとそうでなかろうと、幸運であろうとそうでなかろう
と、気を失うという人として平等に授かっているはずの
最低の権利を享受することが、私にはなぜできないのか。
なぜ他人ではなくこの私が、事故に遭わなくてはならな
いのか。……
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