本・雑誌・ウェブ
サラセニアの耳
太田道子
  1

 勤め帰りにスーパーで夕食の買い物をして、マンショ
ンの部屋に戻ると、暗い台所中にジィージィーと低い音
が鳴り響いていた。塁子はあわててパンプスをぬぎ、音
のほうに駆け寄った。小指の爪ほどの赤い玉が光ってい
る。壁にとりつけたガス洩れ警報器が鳴っているのだ。
ガスが洩れているのか? が、においはしていない。電
気のスイッチは、その真下にある。ガス洩れの際、電気
は点けていいものだろうか。躊躇したが、息を呑んで思
いきってスイッチを入れた。
 明るくなった台所に、いつもの緑色のと違って、赤い
玉が目をむいて、ジィージィーいっている。やっぱりガ
ス洩れだ。塁子はとっさに玄関のドアを大きく開け、バ
スルームと流し台の上の窓を開け放った。換気扇はつけ
てはいけない、と聞いたことがある。
 空気を通しても、鳴り止まない。警報器のプラグをコ
ンセントからはずしてみた。いつもの静寂さに戻った。
二、三分して差しこむと、またジィージィーいう。
 警報器の横に貼ってある非常時の連絡先のシールを見
て、電話をかけた。
 意外にのんびりした声で、
「ガスのにおい、しますか?」と訊いてくる。
 ちょっと待ってください、と受話器を手でふさぎ、も
う一度、嗅いだが、ガスのにおいはしなかった。風邪気
味だから、においにはちょっと自信がなくて、と返すと、
「こちらの言っているにおいは、ですね、思わず、噎せ
るとか、咳きこむとか、っていう、そういうにおいのこ
とです」と言われてしまった。
 ドアや窓を開けたままにして、ガスの元栓を締めてお
いてください、ということだった。通りに出て待ってい
ると、十分ほどして、赤い点滅灯を回転させた白いワゴ
ン車がやってきて、細長いガス探知機を抱えた係員が二
人、台所にあがりこんできた。結果は、ガス洩れではな
く、警報器の五年ほどの耐久年数が切れて、なかのコー
ドの一部が溶けてしまったためと判った。
「ガス洩れのときは、赤い玉が点滅するんですよ。音も、
ジィージィー鳴り続けるんじゃなくて、ピィッ、ピィッ、
ピィッって断続音なんです」
 だったら最初に電話をかけたときに、その違いを言っ
てくれればよかったのに、と胸にカチンときたが、「御
足労をかけました」と頭を下げた。
「――ま、とにかく、ガス洩れでなくてよかったですね」
 二人の男は笑い、書類にサインを求め、新しいのに取
り換える手配をしておく、と言い置いて帰っていった。
 たったそれだけの、二十分足らずの顛末だった。が、
塁子は足元を掬われたような気分に陥った。嫌な予感が
した。スーパーの袋をテーブルの上に投げだしたまま椅
子に掛け、呆然としていた。食事の支度をする気が失せ
てしまった。食欲も無い。こんなことぐらいで……と思
った。情けなかった。
 冷蔵庫から気の抜けた残りの赤ワインを取りだして飲
みはじめた。その後、夕食もとらず、風呂にも入らず、
いっこうに眠気のこない体を押し倒すようにしてベッド
に潜った。
 寝入りばなに、電話が鳴り響いた。(――ほらね、や
っぱり……)枕元のスタンドを点けて時計を見ると、午
前二時を過ぎていた。こんな時間に掛けてくるのは、従
妹の紀奈しかいない。塁子はベッドから跳ね起きた。
「――ハエトリソウが、とうとう枯れちゃった……。残
りの三鉢とも全部よ……」
 いきなり紀奈がしゃべりだした。