ペルセウス座流星群
冬川 亘
1
――男なんてもう沢山、なんだか自分が情けなくなる
わ。
寿美はそう言ってすげなく二階へあがっていく。それ
もこれもあの年の秋以来のことだ。高校大学とシングル・
スカルの全日本級の選手だった寿美は、もともとスポー
ツマン一家に生まれた血筋のせいか身体壮健で、五十の
声を聞いても立派に子どもを生める体調を維持していた。
寿美の体調が多少不規則になることはあっても、始めれ
ばまた始まり、夫婦の間柄はきわめて順調だった。もう
銀婚式も間近かだった。当時、一家四人で、この住宅団
地へ引っ越してきてから足かけ十六年がたっていた。
ここへ引っ越してきたとき、だから星也は五歳、哲也
はたった二歳だったということになる。多少むりをして
ローンを組んだこの家に引っ越してきた当座、夫婦はあ
りとあらゆる部屋でお祭りをしたものだった。寝室はも
とより、子どもたちの部屋、リビング、ダイニング、キ
ッチン、洗面所、浴室のなかでまで、子どもたちをある
いは寝かせつけ、あるいは外に追い出し、夜となく昼と
なく。
レスリングの国体選手だった父と高校に入るまで日曜
の朝には布団のなかで“寝技ごっこ”をしていたという
寿美のやり方は、ものすごく陽気でレスリングじみてい
たが、研二は昔からそれが気に入っていた。寿美にはな
にも言わなかったが、研二はそうやって自分たちが住処
を作ろうとしていたという自覚はあった。その昔、開墾
村でひとびとが得手勝手にお祭りを始めたように。
――はじめて聞いたときには、なにもわからない幼稚
園児だからなのかと思ったわ。だから、車に注意しなさ
い、車にぶつかったらあなたはなんにも食べられなくな
っちゃいますよ、と必死で言い聞かせたのよ。自転車で
ふらふら道のまんなかに出ていくんですもの。ところが、
それが小学校へ入ってからもなのよ。しかも、それがあ
んまり頻繁なの。あたしの前ではやらなくなったけど、
お宅のてっちゃんが大通りでダンプの前を自転車で横切
って怒鳴られていたとか、バスにむかって走ってたとか。
そんな話がつぎつぎに耳に入ってくるのよ。なんなのこ
れは、とよくよく見ていたら、あの子はわざとやってた
の。幼稚園の頃からあの子の自転車の腕はそりゃすばら
しかったわ。あのちいさなマウンテン・バイクでくりく
りと障害物を避けて道をつっ走っていくんですものね。
あちゃっと思った。うちの男どものことを考えちゃった。
クライマーとか戦闘機乗りとか、レスリングの合宿だっ
て血尿が出るほどむちゃくちゃやるんですもの。あたし
はお舟だったから競技中は安全なんだけど、それでもふ
っと突破感覚が来て、このあたりが肉体の限界らしいと
考えるのがやっぱりスリルなのよ。それで自転車を取り
あげることにしたの、なにかもっとスポーツ風なことを
やらせなけりゃって、サッカー教室に入れることにした
のよ。
そんなこととは知らなかった、と研二は思った。あの
とき、寿美はこの子は体力を持て余しているらしいから、
放っとくと悪さをするようになるだろうと言ったのだっ
た。この世の中にはルールというものがあるということ
を教えないと、と。
だが、その作戦にもさしたる成果はなかった。いや、
小学校から中学にあがり二年生でチームのストライカー
に抜擢されるまでは、あれでもいくらか増しだったのか
もしれない。かれは球技大会や運動会のスターで、クラ
スの人気者だった。せいぜい、教卓の抽出にへびやかえ
るを入れるとか、ストーブのなかにかんしゃく玉を投げ
込むとか、授業中に二階のベランダからベランダへとわ
たり歩いてべつの教室を見てまわるとか、水洗トイレの
水に絵具で派手な色をつけてしまうとか、それくらいの
ことで納まっていた。ルールのない場面、ルールに縛ら
れていない状況を見つけ出すのが、わが子ながらかれは
とてもうまかった。その都度、寿美は学校に呼び出され、
哲也ともども担任の先生やとなりのクラスの先生や校長
先生にひたすら頭をさげたのだった。そんなことが一学
期に一度くらいは必ずあった。親としても、絶対に弱い
者をいじめるなということと女の子には決して手を出す
なということは、きつく言い聞かせた。幸い、かれに暴
力的な傾向はなかった。
かれが授業というシステムその物になじめないのは、
親としてもよくわかっていた。かれは学期の始めに教科
書をわたされると、一週間か十日でそれをみんな読んで
しまい、それっきり興味を失った。勤勉でないかれの成
績は、中学に入ると徐々に下降線をたどりはじめた。
かれはなんにしてもゆっくりやるということができな
かった。はっきりした目標があれば機敏に走りはするが、
目の前にボールがないと、なにか面白そうなべつのこと
を始めるのだった。
FWになったときも、しばらくは必死に走りまわり、
親としてもああこいつはやっと居場所を見つけたなと喜
んだものだった。哲也はまさに水を得た魚だった。二年
生にもうひとりすばしこい子がいて、その子がドリブル
でディフェンスのあいだを突破しキーパーを引きつけて
おいて逆サイドの哲也にパスを出し、走り込んだ長身の
哲也が足やら胸やらときには顔で幾度となくゴールをあ
げた。中学校の校庭や市営グラウンドで日曜ごとに行な
われる地区の試合を、研二たちはよく見にいったものだ。
だが、半年ほどでかれは膝を痛めた。歩くのはなんとか
歩けるが、まったく走れなくなった。月に一度は膝にた
まった水を抜かなくてはならなかった。コーチも医者も
しばらくむりをしないようにすれば、またサッカーをや
れるようになると哲也に告げた。哲也がそれを信じたか
どうかはわからない。
ふっと魔が射すというか、哲也はべつのことを始めた。
もしかしたら、かれはずっと遊びでサッカーをやるつも
りはなかったのかもしれない。そして、自分のサッカー
選手としての将来に見切りをつけてしまったのかもしれ
ない。ともかく、かれは突然に暇を持て余しているよう
に見えた。かれはなんにしてもなにもせずに待つという
のがキライだった。さすがに中学になると、その手の子
がまわりにごろごろといて、各自勝手に面白そうなこと
をやっていた。まずいなと思ったときには、かれはもう
どこでどうコネを付けたか夜中にバイクを走らせるグル
ープに入っていた。夜間外出が数回つづいたところで、
研二はかれと話をしてみることにした。
◇
――怒られるってことが、あの子にはどういうことか
わからないのよ。あの子は禁止されていることをやるよ
うな子じゃないわ。ちゃんと、説明があって本人がそれ
を納得すればね。あの子はおとなが思いもしないような
ことをやるわけだし、なにか面白いことを見つけてそれ
をやるのがあの子にとっては人生というものなの。おと
なが怒ってるのを見ているのも、あの子には面白いのよ。
やりたいことをやってみて、どっかにぶつかったらそれ
も楽しんで、どうしてもダメそうだったらあきらめる。
やっぱりダメだったかって顔をしてね。そんなときのあ
の子の顔、あたしとても好きだわ。たぶん、親としては
甘すぎるのかもしれないけど、ごく自然なプライドが感
じられて、これぞスポーツマンシップだなって、自分の
見つけたゲームにぼくは全力をあげてトライしてみまし
た。そういう満足感があふれていて。まったく、悪怯れ
たところがなくって。親ばかと言われるかもしれないけ
ど、親なんてばかじゃなきゃ勤まらないわよ。
これがかんしゃく玉事件のときのことか、それともト
イレ事件のときか、研二は定かには覚えていない。とも
かく、小学生のときのことだった。あのとき寿美の眼に
にじんでいた涙は、なんの涙だったのかと、研二はとき
どき考える。学校で説教されて悔しかったといったふう
ではなかった。担任の教師が、いやあ元気なお子さんで
と言ったのも、皮肉ではなかった。教師たちはみなむし
ろ愉快がっていて、謹厳な校長がそれらしく哲也に説教
しているあいだ中にこにこしていたらしい。たぶん、一
時、子の人生が親たちの手にゆだねられているという厳
粛な事実を、彼女はまっすぐに見ていたのだと思う。も
しかしたら、われわれの手を離れたあとの哲也の人生も、
彼女には漠然と見えていたのかもしれない。そして、そ
れをひそかに危惧していたのかもしれない。哲也の妙に
直観力の鋭いところは母親似だった。
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